さわやかトラウマ日記

さわやかな音楽ブログです from 2004


さわやかでまえむきな人間になりたい男が
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【たまに聴くならこんな曲】「もしも叶うなら」NA-ZE?

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もしも叶うなら

もしも叶うなら

  • Naze
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

元Billy&The Slutsのメンバーらによって結成されたNA-ZE? インディーズで活動した後に、メジャーデビューをした曲が「もしも叶うなら」です。

なんとドラマのタイアップついていました。この時たしかホリプロに所属していたと記憶しています。MASCHERAと同じですね。「ヴィジュアル系ブーム」真っ盛りの頃です。そして翌年にhideが死亡しました。ちょうど陰りが見えてきたのがその頃だったかもしれないと、今気づきました。

そんな彼らですが、この曲はすごく斬新な曲で当時びっくりしました。

「もしも願い叶うなら たった一つ みんなと同じにしてください」「もしも願い叶うなら 安定した何気ない暮らしをしていたい」

一般的にはとんでもないことを散々に綴り、ポップな曲にのせて、シニカルなのか攻撃的なまでに保守と欲望を叫びます。そしてラップなのか早口でひたすら「何も変わりはしない!」と叫びます。

そして、「オチ」があります。そこをどう評価するかです。

僕は、「そこはいらない」と素直に思っています。

僕は「もし願いが叶うなら みんなと同じにして下さい」と思っています。そうなのです。僕はずっと「みんなと違う」人間だった。それが苦痛だった。今も苦痛です。

だから普通にしてほしいのです。

そんなふうに、僕は思っています。

でもこの曲は聴きやすくポップです。でも、売れなかった。このあと「嫌な奴だ」というイイ感じに矢張り攻撃的でポップな曲とアルバム「4P」とミニアルバムを出して、解散しました。斬新な曲で良い曲だと僕は、思っています🌋

【ライブレポート】Eins:Vierワンマン 2018/03/17 目黒鹿鳴館 「いまだぼく、救われず」

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今日は温かい方からの優しさにより、Eins:Vierのライブを観ることができました。

いろいろストレスが溜まっている僕に、行けなくなったライブのチケットを譲ってもらいました。本当にありがたいです。今日はその方のためにもレポートをします。

 

Eins:VierのCDを初めて買ったのは「Risk」です。発売後すぐに買った記憶があります。そうだったかなと発売日を調べたら1994年2月9日でした。その時僕は高校2年生でした。当時は長野県上田市、この前まで住んでいたところにいました。

東京池袋の「ブロンズエイジ」にて、CDを買った記憶があります。その当時東京で買ったCDのもう一つがSilver Roseの「終止符」という解散記念ベストでした。「Risk」と一緒に買ったかどうかは、記憶していません。

 

もう何年たったんだろう。長い時、信じられないことが自分には沢山起こった。そして自分は変わってしまった。そしてあの時に夢見ていたこと、夢などではなく現実に起こるだろうと思っていたことが、何もなかった。そして信じられない事だけが数々起こってしまった。

そういう自分を今日は感じました。Eins:Vierのライブを見たのは、今日が初めてでした。

 

でも、自分は「懐かしいな」と思ってしまいました。「何も変わっていない」とも思いました。でも、もう24年も経っている。僕はもう変わってしまった。あの頃の自分は、ここにはいないのに。

彼らは、何も変わっていない。正直、僕は視力も減退し、あの頃はかけていなかった眼鏡をかけるようになってしまいました。今日も、彼らがよく見えなかった。

それでも、変わっていないと思ったのは、姿形ではない、音が当時聴いていた「Risk」そのまま、だったからだ、と気づきました。

 

彼らの音楽は、このシーンでは他にないもの。だということも、ずっとわかっていました。そして後継もほとんど表れなかった。

開演前のSEを聴いて、僕が知るようになった曲が沢山流れていました。東京に出て、輸入盤を買い漁り、雑誌などを読んで、いろいろ学習してきた曲たちが沢山沢山流れました。

My Bloody Valentineの「isn't Anithing」からの1曲など、僕が好きな曲が流れたりしました。Eins:Vierを初めて聴いた時には、知らなかった曲ばかりです。

僕はホッとしました。このシーンでのSEはかならずメタルやハードコア、Slipknotなどのオルタナティブなエクストリームがかかっていたりする印象でした。しかしこの日はそのような音楽は、一切かからなかった。それが理解できるようになった自分にも気づきました。かかったのは全てUKからの音楽だったように思います。

 

そして、ステージに表れた彼らは、始めて直に観るのに、当時のそのままだと思いました。ギターのYoshitsuguは、メイクはあまりしていないように見えたけれども、佇まいは女性のようだった。ギタープレイはCDで聴くよりもより繊細でかつ大胆だった。エフェクトひとつひとつに拘り、ギター一本で音色を生み出す姿は、職人のようだ、と感じました。

エフェクトを掛けることが恥だという風潮もこの界隈にはあったように思います。アンプ直結がただしいというような。そんなことは無い。美しいものを作り出そうとする心は、曲がったものではないんだ、と思いました。

ベースのLUNAはひたすら下を向いてベースを弾いていました。ひとつひとつベースの弦とフレットを力強く弾いている姿が印象的でした。全く正面を見なかった。もちろん、MCなどでは笑顔で話したり、センターに来て、手を振ったりなどはしました。リズムを崩さない、そのために命をかけているように見えました。Eins:Vierは軟弱なように聴こえて、骨太な音楽です。それはリズム、ベースがしっかりしているから。そこが崩れたら、更になめられてしまう、そしてそれが音楽の基本の一つである、ということも、感じました。

ボーカルのHirofumiはまるで「熱血国語教師」のような面持ちでした。頭を振り乱し声を張り上げ、ひたすらに熱いメッセージを伝える。しかし押し付けがましくない。人間くさいのに、くさくはないのです。さわやかだけれども、それだけではない。それはどこかに「恥じらい」があるからだ、と感じました。そして、ボーカルもCDのまま、それ以上に、激情を感じさせたそれはもちろんライブだからです。崩れないように、理性を持って。そういうところはこのバンド全体に言えるのかな、と感じました。

 

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「Not Saved Yet」が3曲目くらいに始まった時、いよいよ始まった感じました。今日はこの曲を聴きにきたようなものです。素晴らしいYoshitsuguのギターフレーズから始まります。何かが大地に向かって流れいていくようなギターのフレーズが「水の都で 生きゆく僕」というフレーズに繋がります。絵が見えるようでした。実際にはライブで彼らが演奏している、という事に感激しました。そしてサビの「I’m not saved」のコーラスは観客達も歌いました。みんなで「いまだぼく、救われず」と明るく歌う、という光景はこのバンドを象徴するものだと思いました。この曲は「Risk」には入っていない、次の「WALK」に入っている曲です。メジャーからリリースされた。僕が短大1年生の時にリリースされた曲でした。

 

人生はあっという間、と言いたいところですが。僕の人生はすごく長いです。ここまですごく長かった。今だ僕、救われず、と言いたいところですが。

この日のEins:Vierは、否定しきれないポジティブさに溢れていました。この日だけではなくいつもそうだったのでしょう。

「Risk」に入っている曲もやってくれました。もちろん初めてライブで聴きました。何度も何度も聴いた、長野で埼玉でそして東京で今こうやって聴いた曲を遂に生で観ることができた。彼らはまだ生きている、そしてこれからも、そしてもうこの機会はないのかもしれない。先は誰にもわからない。未来があるかもしれない、とも思いました。

 「Notice」が始まった瞬間、こらえきれなく成る自分がいました。「愛が君を救うかもしれない」という幼稚な自分と向き合う時が今なのかもしれない、と思ったからです。それが生で聴けてよかったな、と。

 

そして、気づいたことがあります。彼らの演奏はすごくキレイでした。透き通って透明で衒いのない輝きがそこにありました。それはクリーントーンの音楽だということだけはない。そして甘くもない。なんだろうと思いましたが、僕は「すっぱい」音楽だなと思いました。柑橘系でももっと香りが強いもの。要するに甘くはないけれども鮮烈だということです。

 

終演後、場内は明るい雰囲気に満ちあふれていました。みなさんおそらく自分と同じ世代だと思います。男女比は当然女性が多いのですが、男性もいました。でも性別なんてどうでもいい。年齢なんてどうでもいいのです。そしてEins:Vierのメンバーが幾つかなんてこともどうでもいい。全てを受け入れる許容範囲の広さを持つこのバンドが、このまま消えてしまうとさみしいな、と感じながら寒い長野のように寒い東京を、傷んだ足をひきづりながら、帰りました。

チケット提供をしてくれた優しいお方、今日はありがとうございました。

僕は今、救われた気持ちです!

 

maemuki.hatenablog.com

 

 

 

新垣隆「音楽という<真実>」音楽は平気で「人を騙せる」という真実を教えてくれました

 

音楽という<真実>

音楽という<真実>

 

 新垣隆ゲスの極み乙女。の川谷くんと芸人たちとコラボをした「ジェニーハイ」のPVが公開されました。

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新垣隆がピアノで参加しています。素晴らしいのですが、彼の実力はこんなものではありません。本当は、もっと凄いのです。もっと弾ける。

 

新垣隆が初めて公共の場に姿をあらわし、その名前は告げた生中継を僕は見ていました。「新垣隆」その名前をすぐに検索しました。すぐにわかりました。

この人は、本物だと。

 

桐朋学園大学の作曲科を卒業し、三善晃に師事した。という経歴を見て、クラシック音楽が好きな人なら、誰しも思うでしょう。そして驚愕するでしょう。

三善晃先生は、偉大な現代音楽の作曲家で桐朋学園大学の学長も務めていました。亡くなられたのは、佐村河内の件の前です。記者会見でも佐村河内が三善晃の名前を出していました。ろくに聴いたことなさそうなのに。

 

佐村河内守がやっていることは全て詐欺、曲は全て新垣隆が作った。そしてその曲が大衆を欺いていた。佐村河内は音楽が全くできない。楽器もできない。音楽の勉強の経験がない。音楽経験も貧弱。そして目は見える。でも楽譜は読めない。そして耳が聞こえない。でも耳はきこえて、その耳は間違ったことばかり指摘するようなことに機能している。全部嘘だった。

この本「音楽という<真実>」は、新垣隆による、欺いた大衆への謝罪が主なものです。彼は、佐村河内が望んだ「聴きやすい音楽」をやっているような人ではなかった。

それは本人の曲を聞けばわかります。全く異なる「現代音楽」を現在でも志向している。なぜ、そのような人が大衆的な聴きやすいような、そして現代音楽も交えてプロの作曲家評論家を騙せたのか、そしてターゲットである大衆も騙せたのか。

 

それは、新垣隆が天才だからです。そして技術もあった。音楽というものは、別に感情をこめたり、思いをこめなくても、人を騙せてしまうものだ、ということを証明したのです。

そうです。それが音楽という真実です。そしてその音楽により、佐村河内の詐称も判明しました。昔に新垣隆が伴奏をした少女に佐村河内が作ったとして提供した曲を聴き、少女と母親が「これは新垣さんの曲だ」と思ったのです。それが、真実でした。

 

でも、大衆はそれを見抜けなかった。なぜか。それはメディアによる「ドラマの演出」があったから。テレビ、NHKなどが佐村河内を「悲劇の作曲家」などとマンマと騙されて放送をした。それを見た大衆が涙をして、曲をきき「素晴らしい」「感動する」「癒された」「クラシックで初めて感動しました」なんて盛り上がる。作り上げたドラマに自分も乗りたかった。

しかし現実は、佐村河内の嘘。新垣隆が自らスコアを書いたものだった。あれだけの大作を仕事だと割り切り、テキトーに書いた。

この本では、「自分で何が良いかわからない」なんて思っている曲が、支持されて評価されてしまったことも悔いています。

 

僕は佐村河内守を見たときに、「こいつはあやしい」「うさんくさい」と思い、聴きませんでした。全く興味がなかった。沢山のプロの作曲家や批評家が賞賛しても、全く、聴くきにはなれなかった。

「メディアによるドラマの盛り上げ」というものの例に、ピアニストのフジコ・ヘミングがいます。彼女はもう老齢で、ピークを過ぎている。ピアニストとしては、もう終わっています。しかし「悲劇のカンパネラ」などとドキュメンタリーが盛り上げた。その後押しで、大衆は「感動しました」「クラシックはフジコさんがはじめてですが一番です」「涙がとまらない」などと、感動の嵐。

でも、フジコ・ヘミングはもう弾けていません。しかし「ミスは味」とファンもろとも、洗脳されたかのように、言います。

騙されている、とは言いません。詐欺師ではない。佐村河内のようなクズとは違います。

果たして「ドラマの盛り上げ」がなかったら、注目がされたのかどうか?それが疑問です。そんなものが無くても、音楽というものは素晴らしいもの。

クラシック、音楽は「ルックルックこんにちは」の「ドキュメント女ののど自慢」のような「不幸自慢の後にのど自慢で観客審査員涙涙」のようなものではないのです。

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新垣隆さんには、今後も頑張って頂きたい。

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DJ KRUSH新垣隆のコラボレーションです。完全に即興演奏だと思います。彼は本の中で、ジャズ・ピアノを弾くアルバイトしていたと印していました。基礎があると何でもできるんですね。

「エコーバレースキー場」という曲を録音しました 僕が育ったところ、です

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この前、オープンステージで演奏した曲です。録音できなかったので、残しておこうと思い、家でやってみたのですが、GarageBandだとやはり音が良くないですね。。

音量も小さくなります。マスタリングとかちゃんとしたら良くなるのかもしれないですが。。

まあ、こんな感じで「ピアノでシューゲイザー」をやってみたかったのです。

さらっと録ったので、あくまでデモとして聴いてください。

 

今日のメインはこの「エコーバレースキー場」です。僕はこの近く、といっても車で行かないと大変なのですが、そこに親がペンションを始めるために名古屋から引越しました。

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本当は近くに「姫木平スキー場」というリフト1つだけのしょぼいスキー場があって、窓のすぐ横がゲレンデで、そのリフトに手が届くか?というようなところでした。

ここでの生活は、辛かった。特に通学です。名古屋では歩いていけた学校が長距離になった。もう何度も書きました。

スキー場の近くで育ったこと。僕には特にメリットはありませんでした。しかし実の姉妹たちにはありました。姉はプロのスノーボーダーになり、妹も試合で結果を出し、いろんな人と交流をしていました。二人とも、ニュージーランドに練習に行ったりしていました。僕より海外に行くのが早かったのです。

家にも、たくさんがスノーボーダー達がきました。みんなかっこよかった記憶があります。プロの方が長期滞在をしたり。なぜかその時「空間コーディネーター」みたいな浮世離れをしたような人も泊まったり。

ペンションにハイシーズンにはアルバイトの大学生が長期で滞在したり。お客さんとはあまり触れ合いはありませんでしたが、そんな環境でした。田舎なのに、家は都会でした。特殊な環境です。

 

でも、学校は田舎です。当然生活がみんなと違う、ということにもだんだん気づきました。その事を同じ境遇のペンションの子たちとは、あまり話しませんでしたが。

ひとつ、覚えています。この前横浜に用事があって行ったのですが、僕の小学校の修学旅行は東京でした。東京タワーに、あとは…横浜に行きました。山下公園にも行きました。覚えていて、それから山下公園には行ったことなかったなあと思って行ったのです。

https://www.instagram.com/p/BgQAC1ZFMo8/

そこで、なんとなく思い出しました。ペンションの子供らはみんな東京近辺の出身だった。だから東京にわざわざ修学旅行で行くことに不満を言っていました。僕も東京に親戚がいるので、また東京かなあなんて。思っていたような気がします。

しかし、ペンションなので、土日は外出ができません。旅行をすることはあまりなかった。だから嬉しかった、ということも思いだしてしまいました><

 

寂しかったのは、お互い同じ地区でも離れていて、「家に帰ったら遊びに行く」ということができなかった。たまーに、仲良しのペンション同士で集まって、仲良くお食事飲み会をする時もありました。他のペンションはどこもお洒落で素敵なところ、うちとは違うなあ、とそんなのがすごく楽しみでした。

「壊れ時計」というペンションがあり、そこはその名の通り「壊れた時計」が高い天井のお洒落な食堂に沢山飾ってありました。ただ、一つだけ壊れていない時計があるから探してみて、みたいなことを「社会科見学」にて、クラス全員で観に行ったこともありました。

みんな、その建物に驚いていました。自分と同じクラスの人間が、こんなに非現実な空間に過ごしているなんて、と僕は冷静に思っていました。

 

地方の住居は、ペンションのようではない。ペンションの地区だけは特別に「ぼっとん便所」ではなかった、他は全て「ぼっとん便所」でした。

修学旅行で「県外に初めて行く」というような人もいました。

 

当然、反感を買いました。ペンションで集まって、夜遅くまで飲み会をしているということが問題になることもありました。「姫木(姫木平ペンション村でした)のせいで、俺たちの親は苦労している」なんて事をクラスメイトに言われたこともありました。

 

でもそれは小学生の頃です。中学生になると、そんなことは言われなかった。高校生になると女の子に「ペンションなんてすごいね」と言われ、泊りに来てくれたこともありました。

 

その時、その子達と一緒にスキーをしたのです。何年かぶりでした。僕はそこから高校に通えないところを選んで、一人暮らしをしていました。スキーなんてもうやりたくなかった。好きじゃなかったのです。

でも、できました。「スキー滑れてすごいね」と言われました。

 

それは、毎週日曜日に強制的にエコーバレースキー場に通わされていたからです。日曜日の貴重な夜、ナイターの時間。一番寒い時です。ナイターなのは、空いている時間だからです。エコーバレースキースクールのコーチも嫌な感じで、僕は叱られたりしました。やる気がないなら帰れなんて言われたりして。

 

その中に、上村愛子さんがいました。凄いですよね。最初は彼女だと気づきませんでした。おにいさんが僕と同じ名前で、愛子さんは、僕の家のペンションに遊びにきてくれました。妹と仲良しだったからです。そして愛子さんのペンションはわりと僕の家の近くでした。もうそのペンションもなく、僕のペンションもなくなりました。

 

もう二度と行くことはないと思います。そこにもう家がない、そして行く手段もないのです。そしてスキーももうしたくない。

でも、僕はここで育ったんだ、と思いました。

 

エコーバレー、ここは「山彦谷」というところを開発されて作られたようです。

やっほーと叫んでみたこともありましたが、特にやまびこが帰ってきたこともなかったような気がします。

毎日、ここからいつ出られるんだろう。ここから早くでて街に行きたい。

そんなふうに考えていたのに。

 

やはり育ったところ、とは懐かしい。そして、愛おしい。

そして憎らしくもある。複雑です。

この曲は、消えない山彦と消えない森の風景をイメージしました。

もっとちゃんと録音したいです。

おわり

 

【雑誌】本当は「FOOL'S MATE」のライターか編集者になりたかった

FOOL'S MATE - Wikipedia

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僕は音楽雑誌が好きでした。これを読んでいる皆様と同じように。

 

始まりは、ロッキンf、そしてSHOXX、ヴィシャスなどのその後の「ヴィジュアル系」を作ったものから、その後はバンドやろうぜ、J-ROCKmagazine、米国音楽、クッキーシーン、音楽と人ミュージック・マガジン、その他、もう思い出せないほどに、いろいろな音楽雑誌を読んでいました。

「ムック」と呼ばれるような宝島社からでている「音楽誌が書かない〜」シリーズも好きでした。

 

そして一番、僕が「好き」と言える雑誌が「FOOL'S MATE」でした。

僕が読みはじめたころはもう「大きいFOOL’S MATE」の頃です。表紙はいわゆる「元祖ヴィジュアル系」の人たち。巻頭の広告やインタビューもその面々でした。

僕が関心を持ったのは、巻頭の人たちではなく、白黒のページに載っている怪しげな日本や外国のバンドの記事と、広告でした。なんなんだろうこのわけのわからない人たちは。他の雑誌には載っていないものが、沢山載っていたのです。

そして、下北沢の古本屋、「小さいフールズ・メイト」とがたくさん売っているところがあり、その時に自分が追っていた80年代のネオ・アコースティックニューウェーブの記事、日本のアンダーグラウンドシーンについて沢山載っていて、フールズ・メイトの本当の正体を知ることができました。

当時のフールズ・メイトは、細野晴臣と初代編集長の北村昌士のラテンミュージックに関しての難解な対談や、「クルーエル」レーベルの主催、瀧見憲司のアルバムレビュー、そしてイギリスのチェリー・レッドの「el」について解説など、興味深いものばかりで、感激しました。

 

雑誌の良いところは「その時に自分が興味のないもの」と「ちょっとだけ興味があるもの」の情報が沢山載っていることだと思います。

Webは「興味のある」ものしか目に入ってこない。SNSでもある程度タイムラインは「自分好み」のなっているから、Web上でクリックする内容も、そうなります。

 

でも、もう雑誌の文化は失くなってしまった。僕も買いません。

フールズ・メイトも失くなってしまった。

 

いつか自分もそこで記事を書いてみたい、と当然に思っていました。しかし実行には移せなかった。

僕には上記に書いたような雑誌に執筆をするような知識がない、と思い込んでいたのです。しかし、自分にはいつの間にか、それに値する知識と音楽経験があった、ということに、このブログを作っていて思ったりもしたのです。文章力には自信がありませんが。

 

もっと自信を持って、行動をしたらよかった。音楽でもそうです。

「批評する人はその対象に関わってはいけない」という不文律を気にしていたのかもしれないです。結果、どちらにも関わらなくなってしまった。

 

Web上での執筆というものの機会も実はありましたが、僕はそれを選択しませんでした。「フールズ・メイト」のような場所だったら良かったのですが。そのような場所が見つけられないからです。そして、もちろんブログのように自由には書けない。

それが自分のプレッシャーとなり、できないかな、と思いました。だったらここでいい。今もそのように思っています。

 

こんなことを言ってはよくないかもしれませんが、今のWeb上での音楽サイトに見る価値のあるところは殆ど無い、と思います。昔は個人のホームページなど、面白いものがあり、今の商業サイトの全てがそれに劣ってしまう、と感じています。

ブログも、正直面白いと感じるところは、少ない、というかほとんど読んでいません。SNSが隆盛となり、ホームページもブログももう誰もやっていないのではないか、と感じています。発信の質がどんどん薄くなってしまった。そう感じています。

 

僕の救いは、一番の憧れのライター、長澤智典さんが数年前に僕のブログをTwitterで「この人の記事は面白い」と複数の記事を紹介してくれたことです。

先日、自分が高校時代に確かに読んだ「SHOXX」をブックオフで見つけ、そこにMALICE MIZER、BAISER、デザビエの記事、巻中の白黒ページの記事を、長澤智典さんが執筆していました。

それを光栄に感じると共に、やはり後悔しました。

ライターになる資格が、自分にはあったのではないかと感じたからです。

 

でも、もう遅いのです。発表する場が失くなってしまった。おこがましいのですが、自分が文章を書く価値のあるところが、もうここしかなくなってしまった。と感じてしまっています。もう遅い。

本当に、後悔しています。雑誌に自分の文章を載せたかった。夢は夢のままです。

 

終わり