さわやかでまえむきな人間になりたい男が
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【社会】親の都合で都会から田舎に引っ越すことは、子供にとって幸せなのか?

普段は音楽の話が多いこのブログですが、今日はどうしてもいいたいことがあったので、書いちゃいます。

それはタイトルの通りです。

よく「子供のためを思って都会よりは田舎でのびのび育てたほうが良い

という論調があります。

それは社会の中で正義、真実のように扱われています。

それは殆どの場合「社会における成功例」「美談」として扱われます。

脱サラしたおじさんが「都会の生活に疲れていたし、やはりここは空気がいいです。子供たちも楽しそうです。本当にここに来てよかった」とか言ってます。

そして川で遊ぶ子供たちが映されたりします。まあ、幸せそう。

 

テレビや雑誌、または宣伝媒体ではもちろんですが、ネガティブなこと、隠された真実は明かされません。

僕が言いたいのは「あなたの子供はそれで本当に幸せなの?」ということです。

「幸せです。」「毎日とっても楽しいです」聞かれたらそう言うかもしれません。

でも本心なんでしょうか。本心だったらそれで問題ないです。

まだ幼い子供だったら、「都会」「田舎」がどういうものか、知らないので、なんとなくそう思っているのかもしれません。

後になって、その「都会」と「田舎」がどういうもので、どう違うのかわかった時に、どう思うのか。そんなことは考えないのでしょうか。

 

maemukiさん(40歳)の場合

僕は愛知県名古屋市で産まれました。

最初は一宮市のマンションで育ちました。家に「足踏みオルガン」があって、僕が誰にも習ってないのに、弾いていたのを見て「ピアノ習ってみる?」と言ったので「うん」と答えて、近所のピアノ教室に通うようになりました。

そして名古屋市中川区に父方の祖父の家が別に出来るということで、その空いた家に住むことになり、引っ越しました。

新幹線の真横で、家は毎日揺れてましたが、1戸建で快適でした。

小学校に入学し、この頃からいろいろなことがはじまりました。

 

一宮から続けてきたピアノも近所のおじさんの家で習うようになり、他にもスイミングやそろばんなんかも習ったり。

近くの駄菓子屋や遠くのパン屋さんにいって親に見つからないようにこっそり食べたり。

中川区の昭和というところですが、あまり都会すぎでもなく、辺鄙でもない。旧ナゴヤ球場があったあたりです。落合がホームランを打つと家に歓声が聞こえてきました。

「普通の都会の片隅」といった感じでしょうか。

地下鉄に乗って1駅の「金山」のピアノ教室に行った覚えもあります。

勉強は体育以外は良くできて、ピアノが弾けるということで、クラスでも目立った存在でした。3年生の時には「学級委員長」の選挙で選ばれました。 

 

今にして考えると、すごく幸せでした。

普通の、ありきたりの生活でしたが。

 

でも、ある出来事をきっかけにこの生活は無くなってしまいました。

小学校3年生ですから、先のことなどよくわからなかったです。

 

長野へ引っ越し

父は祖父が起業した工場で働いてました。兄がいて、祖父は事実上引退して、兄が社長でした。そのことが原因かはわかりませんが、父は兄とは仲が良くなかったようです。

そんな父が「長野でペンションをはじめる」と言いだしたのです。

そこは、何度か言ったことのあるところでした。

すごい山道を車で登ってやっと「白樺湖」という綺麗じゃない湖があって、そしてその後また山道があります。そしてまた山道を登って、辿り着いた先、そこにペンションを建てるとのことでした。

 当時はバブルの時代です。スキー場の近くでペンションを経営なんて、カッコイイという時代でした。

 

ちなみに確かにペンションはスキー場の近くですが、家の裏にあるスキー場は「姫木平スキー場」という一面しかないショボいスキー場でした。後に潰れました。

本当に大きいメインのスキー場はそこから歩いて15分ほどの「エコーバレースキー場」です。

ここは「スノーボードの聖地」と言われて有名になったところです。

 

小学生でしたので、義務教育のために通学する必要があります。

引っ越しをして最初に驚いたのは「通学はバスでここから何時間もかかる」とのことでした。前は歩いて10分程度でした。

僕は今でもそうですが「乗り物酔い」をする体質でした。

名古屋ではそんな経験はなかったのですが、長野に観光に行った時の山道で始めてそれを経験しました。

 

バス停は最初はペンションが完成するまで、小さな別荘に住んでいて、そこがバス停の近くだったので、楽でした。

しかし、ペンションが開業すると、そのバス停まで車で行くことになります。

そして毎日「早起き」が必要でした。

朝の5時に目覚ましをセットして、5時半におきて、再放送のアニメを見たりして車で兄弟3人でバス停までいきます。

それから長い山道が待ってます。

「鷹山」というショボい牧場しかない僻地まで登っていって4、5人の生徒を乗せて、また下ってという過酷な道です。これが毎日続きます。

僕は我慢できず、まだ転校間も無くですが、車内にて吐いてしまいました。

その後のことはよく覚えてないですが、とりあえず泣いてしまったと思います。

そして、そのことがクラスメイトに付けられたあだ名が「ゲロ」でした。

 

名古屋弁もきつかったので、そのことでもいじめられたりしました。

実際、こっちは訛っているという自覚はありません。

また、休み時間に校庭に連れ出され、サッカーをするように言われました。

体育は苦手で、特に球技はできませんでした。あと、サッカーの経験はありません。

なので、全然できずにまた「運動おんち高木」という称号がつけられました。

名古屋では休み時間に校庭に行ってスポーツなんてことはありませんでした。

 

また、ピアノが弾けたこと、もとが女っぽい仕草だったのか「オカマ」といじられたりしました。先生の前で黒板に「カマ木」とか書かれた思い出があります。

 

「名古屋に帰りたい」

いつしかそう思うようになりました。

「名古屋に帰りたい」

 

「名古屋に帰りたい」

 

「名古屋に帰りたい」

姉や妹に聞かれないように、涙を流していました。

 

あの頃に戻りたい。

学級委員長でみんなと仲良くしていた。

学校まですぐ行けた。

なんでこんなことになったんだろう。

僕は何も悪いことしてないのに。

 

でも、どうすることもできません。子供ですから。

受け入れて、耐えるしかない。

 

その内にクラスメイトとは打ち解けた気がします。

しかし、僕の住む一体に関してみなさん「都会から来た人」なので異分子です。

なので田舎の人には差別されることもありました。

「長野の人ってみんな性格が悪い」と思ってました。今は「どこどこの人はみんな◯◯」なんてことは間違いだと思うので、そう思っていません。

 

僕は聖人ではありません。このあと、養護学級にも通っていたTくんが

授業中に特徴的なものの言い方をするのでそれを「まぼろし」と名付けて

モノマネをしていました。

ある日授業中にTくんが手をあげて発言をするとさっそく「まぼろし」がはじまります。そうすると周りのいじめっこっぽい人たちが「おいーでたぞ!まぼろし!」「まぼろしまぼろし」と囃し立てます。

そうするとTくんは机に突っ伏して号泣してしまいました。

「僕のことを・・まぼろしまぼろしってバカにして・・・」

酷い罪悪感を感じました。「ゲロ」とか言われて傷ついてたのに、いつのまにか悪い方に回っていた。

 

あとは引っ越したときは夏だったのですが、冬になって「寒い」と気付きました。

当然です。山ですから。ものすごく寒いです。

たぶん今のところより標高は高いです。窓から雲海が見えたんです。

全館床暖房だったので、最初はよかったのですが、増築したしょぼいところは床暖房じゃなくて、辛かったです。

朝、起きてしばらくストーブの前で冷えた体を温めました。

寒いのが嫌い」と思いました。寒いってろくなことがない。

それは今でも続いてます。

 

そうこうして、中学校に進学しました。

中学校は「武石村長門町組合立依田窪南部中学校」というところです。

組合立ってなんなんでしょうかね。いまだによくわかりませんが、武石村(現:上田市長門町(現:長和町)の生徒が集まった学校です。

小学校は2クラスだけでしたが、4クラスに増えます。

それは良いのですが、中学校は小学校よりさらに遠く、さらに中学から吹奏楽部に入ったので「朝練」があります。さらなる早起きとなり、親には迷惑かけました。

夕焼けニャンニャン」が流行っていましたが、帰るころには終わっていたので、クラスでの話についていけませんでした。

一度、遅くなってしまって途中までのバスにしか乗れず、当時は携帯電話もないので、終点のバス停で途方に暮れてしまいました。

「入大門」というバス停です。

「どうしよう」と思い、一緒に乗っていた人の動向を見ていたら、ご近所の方の家に訪問して、親に電話をしてもらうようにお願いしたのか、親にきてもらっていました。

僕もそうすればよかったのに。

できなかった。

暗闇の中で。

どうしてこんなことに。僕は意気地がないから?

 

そうすると親が「入大門」まで迎えに来てくれました。

「なんで電話借りて電話してこなかったの」と聞かれました。

「わかんない」と言いました。

 

そして、自分にとって大切なもの。それも引っ越しによって大きな影響が出ました。

それは「ピアノ」です。

ペンションでは名古屋から持ってきたピアノは、「プレイルーム」というくつろぎ系リビングみたいな部屋に置かれました。

なのでお客さんがいるときは弾けません。というか「プレイルーム」にいなくても、お客さんがいるときは弾いてはだめと言われました。

今まではいつ弾いても問題ありませんでした。

またピアノ教室もあちこちあちこち代わったり、先ほど書いた「鷹山」の牧場まできている先生に教えてもらったり。

あちらの都合でピアノ教室がなくなったりして、明らかに名古屋のころからは「落ちて」しまいました。

こんな環境にいることを悪いと思ったのか、親は静岡にある音楽学科のある高校の見学に連れて行ってくれました。実際は女子校だったと思うのですが、よくわかりません。

ホールみたいなところのグランドピアノで「とりあえずなんか弾いて」と言われたので、そのとき習っていた曲を弾きました。あと、アドリブで弾いた気がします。

そして最後にこう言われました。

「今のままでは通用しないと思います。練習するにも制限があるようですし・・」

「でもあなたのピアノの音、綺麗なのよ。他の人には無いものなの。これは生まれ持った才能だから。ご両親に感謝して」

と言われました。この言葉は今でも忘れられません。

 

しかし、この高校への進学は諦めました。

山脱出への道

なんとかいい高校に入って、一人暮らしをする。それが目標でした。

いい高校とは上田市内にある3校のいずれかです。そこが街の中ありました。

他ではだめです。

そしてそんなに「いい高校」とは言えない、上から三番目くらいの高校になんとか合格して、夢の「普通の街」での生活がスタートしました。

 

あのときの開放感。

普通に街で歩いて、普通にお店に行って、普通にコンビニエンスストアにいって、普通に本屋にいって、普通にCD屋に行って。自転車で街をかけぬけて、信濃川の河原でぼーっとする。

本当に「普通」ですが、僕には長らくなかったものでした。

「やっと・・・長かった」

感慨深かったです。この気持ちは同じ体験をした人にしかわからないでしょう。

前に実際に見た、夢のような生活がやっと取り戻せた。

 

親にはいろいろつぎ込んでもらって感謝したいですが、やっぱり僕は長野に来たことは人生最大の不幸だったと思います。

ちなみに姉と妹はスノーボーダーとして成功して、姉は全日本で優勝してプロになりました。今では二人とも長野で結婚して子供がいて家も建てました。

なので、「田舎に引っ越すことが幸せだった」子供もいるのです。

 

僕は今、夢の東京で落ちぶれて、迷惑をかけた「罰」を長野で受けてます。

「名古屋へ帰りたい」と言っていたころのように、またなってしまったのです。

ペンションはもうなくなりましたが、また似たような環境にいます。

 

「東京へ帰りたい」

「東京へ帰りたい」

今は自分のせいなので、諦めています。

小学校3年に長野に引っ越したせいではありません。

 

明日がいい日になりますように。

最近そう考えてます。今日は明日の前日だから不安で不安で仕方ないけど。

 

自分と同じような子供が増えないように。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

 

今は裏日記「口はチョコレート 心は冷凍庫」でこんな感じの

暗いゲロ吐き日記を書いてます。

ほんとうはここは「文化」について書くところでした。

今回は特別、ですが先のことはわかりません。よろしくお願いします。

maemuki.hatenadiary.jp