本日、小沢健二が「ミュージック・ステーション」に出演するとのこと。
なんだかここのところの動きが、急すぎます。
なので、ついていってないです。
「流動体について」も買うお金も無く、売っている場所にいけず
見られるはずのMVも、なぜか見られません。
ただし、小沢健二の公式のチャンネルに過去の曲のPVがあがっていることを発見しました。
そこには入手不可能のシングルの曲もありました。
これです。
「ある光」
僕にとっては、憧れ、を裏返した「嫉妬」の対象です。
彼がうらやましくて、うらやましくて、仕方がないのです。
素晴らしい家系、素晴らしい頭脳、素晴らしい学歴、そしてフリッパーズ・ギターの伝説、ソロ歌手での名声。
ソロ歌手として、いくつかのアルバムを残しましたが、それはどれも色合いが違います。
一番ヒットした「LIFE」
これが、僕の嫉妬の対象です。
過去に「LIFE」には入っていないけど、同じような精神的系譜で作成されたと思しき「強い気持ち・強い愛」が入っているベストアルバム「刹那」をレビューしました。
その曲にたいしての僕の「強い気持ち・強い愛」をそこに表しました。
今でのアクセスのTOP10に入ってくる、古い記事です。10年以上も前。
僕はいま、この曲に対して、違った感情を持つようになりました。
この曲は難しい曲ではなく、その名の通りの「強い気持ち 強い愛」の歌なのです。
当たり前です。キラキラした渋谷の街、東京の街を二人で仲良くあるいて、強い気持ち強い愛、幸せすぎて「今のこの気持ち、ほんとだよね」なのです。
幸せすぎて、それを疑うなんて。なんてうらやましい。そんな経験、あったこともあるけれども、それは恋愛ではなく「社会的に見てラッキー」な、つまらないことです。
誰かと、人間と、そんな気持ちになったことがないから。
完璧な幸せが完璧な人間によって表現されている。それがわかるから苦しい。
でも、曲も歌詞も、そしてサウンドも最高すぎるのです。
キラキラしていて、ストリングスが煌めいて、ブラスは華やかで。
「ある光」はそういう「キラキラ小沢くん」ではない曲です。
だから、この曲は好きです。
今日も最悪な気分で朝を迎えました。うつくしい朝でした。
その後、父親がこの一人の家にやってきました。予告どおりでした。
しかし、僕が予定を勘違いしていたらしく、灯油の補充をしにきたとのこと。
外出するのかと思い、ズボンを履き替えていたのに。
テラスに出て「わーーー」と叫びました。
そんなに大きい声ではありません。
普段はもっともっともっと叫んだりします。
なのに怒られてしまいました。
「山に行って叫べ 人のいないところへ」
とのことでした。
「ほんとクソだなあ」
と思いました。それは自分に対してです。
仕事もできず、ひたすら毎日、泣いている。
情けない人生になった自分が本当にいやです。
Macに向かって、「ある光」のPVを見ます。
この音源はiPhoneに入っていて、ハードディスクにも入っていたはずですが
なくなっていました。
「ある光」はある場所で聴いて、そのことを今でも思い返してみたりしています。
その日のことが、ブログ上に記してあります。
イタリア・ローマへの旅にて、その日の思いつきで「ユーロスター」という日本でいう新幹線にのって、あこがれのヴェネチアに行ったときのことです。
その「ユーロスター」のなかで「ある光」を聴いて、なんだか微妙な気分になっています。
でも、その日のことが自分のことだなんて信じられない。
一人でローマにいって、なんとなくヴェネチアにいったなんて。
信じられないけど、自分が書いた文には存在していた。
ヒマなので音楽を聴いていた。大好きだけど普段あまり聴かない小沢健二なんかを聴いてみた。「LIFE」から「刹那」まで聴いていたら、だんだん哀しくなってきて暗い気持ちになってきた。(だから普段聴かない)
なんでまたこんな遠くまでたった1人で来たのか。どうしてこんなことになったのか。
自分で大金を叩いて来たのに、ふと突然我に帰ってしまう。
見知らぬ国を1人で歩いて何かあったらどうするんだ。
死んだらどうするんだ。言葉も出来ない。金持ちでも無いのにお金を無駄に使って一体自分は何をやってるんだ。
もしかして自分の頭は本当はおかしいのではないだろうか。
こんなに時代は進んだのに、客観的に自分を見る方法が発明されていない。本当にもどかしい。
イタリアの風景をみながら、こんなことを考えていた。
自分がバカで哀しいです。それはイタリアにいた自分ではなく、そのことを思い出して長野の山奥で一人こんなブログを書いている自分が哀しいからです。
そしてうらやましいです。自由にいろんなところに行っていた、過去の自分が。
今は山の中で、どこにも行けずに、本を読んでも、テレビを見ても、全てが隔絶された別世界のできごとのように感じてしまう。その頃には考えたくもなかった、ひどい現実にいる。
この曲が「ある光」が「或る光」ではなく「そこにある光の実体」だと今日気づきました。
「心の中にある光」という歌詞があります。
心に中に光があり、輝く明日へ連れて行ってくれという歌なのです。普通にきけば誰もそう思うはずなのに、僕は気づかなかった。
今日、気づいたということは、自分の心の中にまったく光がない、と気づいたからかもしれません。
この先、続く永遠の闇しか見えない。ある光、がない。
どこにいったんだろう。そして、この旅行記のときは「光」があったうえでの悩みだと、気づきました。
旅行記を書いておいてよかったです。
その時の自分の気持ちが残っているから。
このブログは一応「人のため」にかいているのです。
でも、もうやめました。
自分のために書きます。
僕はとりあえず、光は長野にはない。と考えています。
東京に帰りたいです。
でも、帰る力がないので、それまでは地獄の中で
必死に耐えます。いつか帰る日を夢見て。
絶えられなくなったら「夜逃げ」するかもしれません。
逃げて、新しい自分としてやり直すのです。
ここにいて、最悪の孤独を味わいました。
それならば、この自費で買ったMac Book Proさえあれば
なんとかなります。
「逃げる」ことになるので、SNS、そしてブログ上にも
姿を表さないことになると思います。
でも逃げないように、頑張ります。逃げるのはよくないから。
逃げたくないのに、逃げなければいけないような状況になった時が
一番つらかったから。
見せてくれ
心の中にある光