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【レポート】NHK交響楽団 定期公演〜ドビュッシー没後100年〜 100年残った音楽、100年残らない音楽

 

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没後100年として、クロード・ドビュッシーの曲を中心に構成されたNHK交響楽団定期演奏会に行きました。オーケストラとドビュッシーウラディーミル・アシュケナージのプログラム、チケットは土曜日の公演は売り切れだったけど、この日はまだ手に入った。日曜日の公演の方がチケットが取りやすいのだろうか。

NHKホールにNHK交響楽団を観に来たこと、一度だけ覚えている。オリヴィエ・メシアンの大曲「トゥーランガリラ交響曲」を聴きに来た。演奏曲は「トゥーランガリラ高曲曲」1曲のみ。75分もかかるのだから仕方がない。オンド・マルトノを間近に見られたことは良かった。演奏もすごかったし、確か「日曜日の昼にこの曲だけを聴きにこんなにたくさんの人が集まるなんてすごいな」と思った気がする。

 

開演前、早く着いたので、外でいっぷくと思い、テラスに出てみた。雨が降りしきり、無数の雨粒が木にあたる音が辺に響いていた。この音は好きだ。やまない雨も許せる。しかし、それをかき消す嬌声と雑音があった。代々木公園のフリーライブ。こんな雨の日でもやっていて、よくよく聴こえてきた。ささやかな雨の音をかきけす勢いのあまる、どこにでもある楽曲、かんたんな楽曲、ワンパターンなギターオンリーの装飾の音楽、あつくるしいありきたりな誰でも思いつくような歌詞の歌。雨の音と分離させて、それらをきかないようにした。そんなことはできない、と思ったけど、できたような気がする。雨粒が木の葉にぶつかる音楽は、100年後も残っているだろう、なんておもいながら。

ドビュッシーはことしで没後100年。100年残ってきたということ。この人達の音楽は、100年残るのか?それより先に、今、残るのか?

なんて、考えてしまった。欲求不満なのかもしれない。僕は今、芸術というものをよく考えてしまっているから、仕方ないんだ。そう思うようにした。

 

アシュケナージは、幼少の頃から彼の弾くショパンのバラードスケルツォのCDをよく聴いていた。ほんとうはピアノが聴きたかった。今日は指揮者。指揮台に上がるまえに、ちょっと小走りになるのが可愛かった。80歳あては、活き活きとしていて、それは指揮にも表れていた。

1曲めはフランスのイベール作曲の「祝典序曲」なんでも神武天皇の即位2600年を記念して日本政府に依頼を受け作曲をしたとのこと。しかし日本らしさのような、気づかいは感じられなかった。フランス王朝への祝賀曲だったとしても違和感がない。ファンファーレもどこか、上品かつ、下品で、フランスらしいな、と思った。

 2曲めは「ピアノと管弦楽のための幻想曲」ピアニストのジャン・エフラム・バウゼが参加する。音源で聴いたけれども、ピアノ協奏曲といってもいいのかもしれない。ドビュッシーの曲には「ピアノ協奏曲」と題するものはない。不思議だ。ドビュッシーピアノ曲、オーケストラの曲もあるのに。ラヴェルには「ピアノ協奏曲」と「左手のためのピアノ協奏曲」がある。どちらも名曲として名高い。

この「ピアノと管弦楽のための幻想曲」は、ドビュッシーローマ大賞(すごい賞)を獲得し、その褒美として、ローマに滞在した時の課題として、造られた曲とのこと。僕が、ローマに行った時のコンサートできいた交響組曲「春」と同じ時期につくったらしい。表題音楽ではないので、どのような風景を持って書かれたのかは、知るよしもない。キーワードは「幻想曲」ということだけ。幻想。今の僕がもっとも欲しているもの。だから、曲の世界に見をまかせてみた。「交響組曲 春」と同じような、平坦な道を美しい風景と共に、ゆっくり歩いているかのような曲。ただ少し、何かが霞に隠れていて、見えなくなっているかのよう。しかし光は見える。ああ、ここはどこなんだろう。

ひたすらに実直であるピアノのフレーズに、オーケストラやハープが彩りと花を添えてくるようなイメージを描いていた。

 

そして、曲が終了後、バウゼがアンコールに応えた。開始1秒、トリルの音で曲はすぐわかった。「喜びの島」観客らもすぐわかったような空気が流れた。ドビュッシーのピアノ独奏曲の中でももっとも技工的であり、神秘的である曲。としかいいようながい素晴らしい曲だ! 

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クロード・ドビュッシーのことを「印象派」よぶ輩がいるようだが、おそれいるがそれは間違っていると思う。彼は水のうつろいや、モネマネ的な風景だけを、描いているわけではない。音による実写の反映だけのような作曲家ではない。それは「喜びの島」をきけばわかるだろう。実在しないもの。この世にはないもの。そう、幻想。それを描いているのだ。言葉ではなく、写実でもない。そんなことを考えながら、聴いたのかもしれない。

 

休憩中、次にパンフレットにて、次にはじまる「牧神の午後への前奏曲」の解説の項を読んだ。象徴主義の詩人マラルメの「牧神の午後」の舞台用音楽のために作曲されたもの。「牧神の午後」は未完成となり、「前奏曲」だけが残った。詩は、真夏の午後の森で牧神が水の精に欲望を感じて思い悩むさまが描かれる、暑さに圧倒されて動かない大気のなかを牧神の葦笛だけが流れていく」というような内容の詩らしい。なんてすてきなんだろう。これこそ幻想だ。そのための音楽、にふさわしすぎる、言葉に音楽が勝っている例なのだと思う。

この曲の冒頭は、フルートの低音のソロではじまり、金粉を巻き散らかすようなハープに導かれて、フレンチホルンが高音でソロを奏でる。フルートの低音、フレンチホルンの高音。どちらも演奏はむずかしい。弱奏だということ、管楽器はとてもむつかしい。そんな優雅な邪念を吹きとばすかのような、高貴であり、現実感にとぼしいまさに、神の音楽といっても良いかもしれない。ドビュッシーが編みだした和声の体系は、音楽の歴史に残るもの。100年たっても色あせない音楽とはこういうものなんだ、と実感した。どこかにひきずられてしまうような、引力のある音楽。地球ではないところに!ひきずられてしまう、かのような、曲。

それにしても、生で聞く弦楽器の音のすばらしさ。響きのすばらしさ。立体的に、音をかなでるダイナミズム。ポピュラー音楽では死んでしまった「音の強弱」がここではまだ生きているんだ。馬鹿なやつらめ。アンプリファイアが産み出した物に踊らされてあわれたなこと。

 

続く交響詩「海」はドビュッシー管弦楽の曲なので、いちばんポピュラーかもしれない曲。実際にはピアノ曲である「ベルガマスク組曲」の中の「月の光」のオーケストラバージョンが一番ポピュラーなのかもしれない。ああ、そんな余計なことを思ってしまった。思うだけでもったいない。「交響詩 海」は漁師である父に影響をされ、海が好きだった、というドビュッシーの海への思いをこめたもの。とのこと。海、僕も海への思いはある。すごくある。海、という言葉を見ただけで、心の中が海になってしまう。しかし、実人生は海がから程遠いものになってしまった。

この曲をはじめて聴いたのは、吹奏楽コンクールで第3楽章「風と海の対話」を学生が演奏しているのを聴いたときだった。つまらない曲だな。よさがわからない。それは仕方がない。そもそもこの曲は吹奏楽アレンジをするにもっともふさわしくない曲である。顧問のちくしょうはそれが理解できなかったかのだろうか。弦楽器が海となり風にもなる。僕は、今日、この演奏で「海」を感じることができた。水面、波飛沫、たゆたうもの。朝の海、夜の波、海の上に浮かぶ太陽さえも。

 

そんな感じです。僕はまた明日から普通のサラリーマン生活。くそだけど、もう怖くない。僕は幻想の世界に生きる。こちらが現実であり、明日から起きることは、全て幻想である。いつかそれらが入れ替わるように、ひたすらに、幻想に生きる。

おわり!!