さわやかトラウマ日記

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小沢健二「彗星」 僕の中の3つの彗星

彗星

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1つ目の彗星「朝、通勤バスの中で」

小沢健二の「彗星」が発表された。その報を聞いたのは、朝のワイドショーだった。別に何とも思わない自分がそこにいる事に気づいた。のに、朝の通勤のバスの中で、たまたまアイフォンを開いたら、そこには小沢健二の「彗星」がすぐにかかるようになっていた。ほんとうにたまたまだった。

「初聴き」というものは、重要なものだと思う。アルバムなどとは違って今回は1曲だけがそれになるんだ。大切な瞬間になるに違いない、なるといいなと素直に感じて、僕は再生ボタンを押した。声に違和感を感じた。正直にいうとそう感じてしまった。彼もトシをとったんだろう、なんて素直にそう感じてしまった。当然、僕もそうなのだけれど。曲の内容は、彼の中において、どこかで聞いたような曲であった。僕の好きなアノ曲やアノ曲。すぐそれはわかったけど、曲名を思い出せなかった。なぜかはわからない。ただ、その感じは自分がとても好きな部分でもあった。音像からしてそうだった。輝くストリングスと、ブラス。グルーヴィーーなリズム。違うのは、これみよがしのリフレインがあることだった。何度も何度も。

曲の途中で、これは最後まで見える曲だな、と思った。一定の統一された情緒が貫かれている、まるで、パレードのような曲なんだろう、と思った。それから頭がぼーっとして、曲を最後まで聞いたのだけれど、いつの間にか終わってしまっていた。

 

「曲の情緒が最後まで一定に保たれている」ということを具体的に説明したい。が、残念ながら小沢健二っぽい音楽にて説明をすることが、自分にはできないから、そこは自分らしく説明する。

ルネサンス時代のフィレンツェの画家、Sandro Botticelli(ボッティチェリ)の有名な絵画に「春」というものがある。

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この絵画を見た、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーが「交響組曲 春」という管弦楽曲をイタリアの滞在時に作曲をした。その曲が、「一定の情緒に貫かれて最後まで続いていく」ものだと感じた。女神達の行進が、春のきらめきの中で、迷いがなくずっと続いていく。僕はフィレンツェの「ウフィツィ美術館」にてこの絵画を見た翌日に、ローマのオーケストラの演奏で、この曲を初めて聞いた。その時のイメージと小沢健二の「彗星」は重なっているような気がした。

「彗星」はドビュッシーの「春」のような曲だ、とその時は感じた。感じてしまった。

2つ目の彗星「オフィスと駅までの道にて」

僕は毎日、呆れてしまう呆(ほう)けてしまうような退屈な日々を送っていた。やることがなくなって、何をしていたかということ、会社の外の座れるところで、音楽などを聞きながら、ときには何もきかずみずに、空を眺めていたりした。「なんて退廃的ななんだろう」とそんな自分に酔う事を楽しみにしようとしていた。

そんな時によりにもよって小沢健二を聴いてしまった。そしてあまり聴いたことのない「彗星」を聴こうとしたのも無理が無いと思う。でもここで「天使たちのシーン」を聴いてしまったら、その時の「崩壊」を招くよりも良かったのだろう。

この時も僕は「彗星」をただ、流して聴いていたんだと思う。なんせ呆けているので、覚えていなかった。そよぐ風と都会の中の所在無げな木たちの揺れる葉が夕焼けに照らされて、影絵のように見えるような場面には、よく似合っている音楽なのかな、と感じた。

その帰り、呆けた日々の戒めのようなつらい帰り道がいつも、毎日、僕には科せられている。その帰り道でも、「峠を超えた道の途中」、ワイヤレスイヤフォンを耳に押し込んで、その瞬間に「彗星」が流れてしまった。ちくしょう。なんで小沢健二なんだろう。こんなくそみたいな毎日に、なんてふさわしくない曲なんだろう。こんな曲。光り輝く、ひたすらに同じハイな情緒を伴って流れ続けるすばらしいうつくしいストリングスが辛い。ちくしょうちくしょう。永遠のようなリフレイン、僕はすっかり覚えてしまった。歌詞は聞き取れないけど。そのうちに、子供と大人の合唱のようなパートが挟まれるのを認識した。子供。小沢健二にはもう子供がいるんだ。「そのうえ」でのこの曲だなんて。もう子猫ちゃんとどうこうみたいな事はないのだろう。なんてことなんだろう。うまく歩けなくなった、自分が恥ずかしい。なんで。なんで。そんな「彗星」だった。彗星は、星を破滅させることもあるんだ、とやはり退廃的な面持ちになってしまったけど。楽しいからいいだろうありがとう小沢くん。なんて思った。

3つ目の彗星「昼か夕闇かはわからない、きょう」

何もかもが解決をしたなんて思わないけれども、ある程度の解決はあった。それでも僕の心は晴れなかった。

「つらい時に聞きたくなる曲」というものは、誰にでもあると思う。僕にとってはもちろん小沢くん、と言いたいけど。残念ながらそうはいかない。ここまで書いた勘付いたと思うけど、僕にとっては「聴くとものすごく辛くなる」けど「聞きたくなる」のが小沢くんというわけです。それは、15年前に書いた「刹那」の「強い気持ち・強い愛」のレビューを見てくれればわかると思う。

maemuki.hatenablog.com

「彗星」ち「強い気持ち・強い愛」は強く結びついているのものなのかもしれない。「彗星」の歌詞の中には「1995年」というのがある。それは「強い気持ち・強い愛」の

リリース日だったから。ただそれだけ。フカヨミするわけでもない。ただ似ているの事実かな。というのは今、この場で思いついただけ。こんな事を考えれられて、この曲の持つ、心地よい情緒を少し受け入れられるようになったんだという、自分の中の変質を感じることができた、ような気がした。 そしていつものように、いつものことを思った。僕は小沢健二になれなかった。小沢健二になりたかったわけではないけど、なれなかったのは事実だということ。この概念は、一生僕の中に焼きついてしまったものなんだろう。誰にも理解してもらえなくてもいい。「彗星」は終わらないような曲調だけど、終わる。かならず音楽は終わるもの。人生と同じなんだ!小沢くん。ありがとう!

「今の この気持ち ほんとだよね」