皆様は「芸術」がお好きでしょうか。
ぼくは好きです。音楽だけではない。
その全てが、一体となって自分と一体になっているような気がするのです。
ぼくはある場所で、ある本を読みました。
「ゴッホの手紙」という本です。
世界的な有名な画家、ファン・ゴッホ。画家の中でももっとも高名といっても良いかもしれない人ですが、生前は画家としての活動期間も短かったのもありますが、絵が売れたのは知人が買ったもの1点のみ。名声を得るその直前にて、亡くなってしまいました。
この「手紙」は絵を書き始めたころ、まだ画家を目指していたころに弟に向けて書かれたものです。
換羽期とは、羽が生まれ変わる時期のことです。その時にある苦しさと、変わった時の喜びを夢みているけれども、「監獄」に捕らわれている。そんな混乱している彼の様子が痛いほど伝わります。
とても長い文章ですが、ひとつひとつの言葉が自分にのめり込んでくるのを感じました。だからこちらに転載させていただきました。画家の手紙に、魂の入った真の芸術を感じました。
ぼくはいつかこの手紙を、自分の作品に活かそうと思います。
1880年6月
換羽期とは、鳥にとっては羽毛が生え変わる時期のことだが、
人間にとっては逆境や不運、すなわち困難な時期にあたる。人は
この換羽期の只中にとどまることもできるし、生まれ変わったように
抜け出てくることもできる。しかし、そうはいっても、
これは公衆の面前で行うものではなく、決して楽しい物でももない。
だからこそ、隠れて行う必要があるのだ。
それはそれで仕方がない。
今きみが、ひとりの人間が絵画の研究に没頭することを許してやれるのであれば、
書物を愛することはレンブラントを愛することと同じように神聖なことであるということも
認めてやってほしい。ぼくは、両者はお互いに補い合うものであるとさえ考えているのだ。
一体何ができるのだろうか。内面に起こるものは、外面に現れてでるものだろうか。
人間の塊には、大きな炎があるのものだ。
しかしながら、そこには誰も暖まりには来ない。
通りがかりの人々は、煙突のてっぺんからわずかな煙が出ているのを見るばかりで、
通り過ぎていってしまう。
では一体どうするべきなのか。内部の炎を燃やし続け、自らの内に刺激を保ち、我慢強く待つことだ。
とは言え、誰かがやってきて炎の傍らに座りたがるかもしれない時を、もしかしたらそこに
とどまりたがるかもしsれないその時を待つのに、どれほど辛抱が必要なことだろうか。
そんなことを、どうしてぼくが知っているだろう。神を信ずる者には、遅かれ早かれ訪れるその時を待たせておこう。
今はさしあたって、万事まったくうまくいっていない。
かなり長い間こんな調子だったし、今後もしばらく間このままかもしれない。
しかしながら、何もかもが間違っているように見えた後に、すべてがうまく運ぶこともあるかもしれない。
そんなことをあてになんかしていないし、おそらくは起こらないだろう。
でも物事が好転した時には、それはとても大きな進歩だと考え、満足することだろう。
そしてこう言うのだ。
「とうとうやったぞ!そうだ、結局のところ何かがあったのだ」
僕は筆が走るままに、行き当たりばったりに書いている。
きみがぼくの中に一種のろくでないとは別の何かを認めてくれたら、大変嬉しい。
なぜならば、一言にろくでなしといっても、それぞれに大きな違いがあるのだ。
のらくらとして怠惰であり、気質の根本から品性にかけているろくでなしもいる。
きみは、ぼくをそうした人間だとみなすこともできる。
さらに、別のろくでなしもいる。心ならずろくでないもあり、内心は行動したいという大いなる願望にひそかに焦がれているが、何も実行できないから、何も行動もしない。なぜなら、
彼はある意味ではどこかに囚われた状態にあるのであり、また何かを生産するのに必要なものを持っていないからであり、必然の状況が彼をこの状態に押し込めたからである。
このような人間は自分に何が出来るか総じて知らないものだが、それにもかかわらず本能的にこう感じているのである。
「それでも自分には何かしら得意なことがある。自分の存在意義を感じられるのだ。ぼくは、まったく別の人間になれるだろうとわかっている。どうしたら役に立つ人間になって、何ができるのだろうか。ぼくの中には、何かがある。いったいそれは何なのか。」
これはまったく別の種類のろくでなしだ。きみはぼくを、そうした類のひとりだとみなしてくれてもいい。
春、籠の中の一羽の鳥は、自分に得意なことが何かあることをよく知っている。やるべき何かがあると痛烈に感じていながら、それを実行することができないのだ。それは何なのか。よく思い出せない。それゆえに漠然とした考えを抱くようになり独り言をつぶやく。「ほかの鳥たちは、巣作りをして、卵を産み、ひなを育てている。」そして籠の柵に頭を打ちつける。籠はびくともせず、鳥は深い苦悩で気が狂うのだ。
通りがかった別の鳥が言う。「ろくでなしがいるぞ。あいつはのんびり寛いでいる。」しかしながら、捕らわれの鳥は生き延び、死ぬことはない。彼の内面で起こっていることが、外面に明らかになることはない。彼の内面で起こっていることが、外面に明らかになることはない。彼は元気であり、陽光の下では多少なりとも快活になる。けれども渡りの季節がやってくると、メランコリーの発作が起きる。「でも」と、籠の鳥の世話をしている子供たちは言う。「必要なものはすべてもっているのに。」だが、鳥は外に目をやり、黒く今にも雷雨が来そうな空模様を見ている。そして、心の中で運命に嫌悪を感じている。「私は籠の中にいる。私は籠のなかにいる。だから何も不足はない。ばかな!必要なものは何でも持っているだって!ああ、後生だから自由を与えてくれ。ほかの鳥たちと同じように。」
ろくでなしの人間とは、こうしたろくでなしの鳥のようなものだ。
得てして人は、身の毛もよだつような、恐ろしい、非常に悲惨な籠らしきものの中に捕らわれて、何もできない状態に置かれている。
ぼくは、また解放されることも知っている。いつかは解放されることを。正当であるにせよ不当であるにせよ失われた評判、貧困、宿命的な状況、不幸、こうしたあらゆる状況が人々を囚われの身とするのだ。自分を監禁するものが何なのか、何が自分を閉じ込めるのか、何が自分を生き埋めにするように思われるのか、どんな場合でも断定することはできない。けれども、やはりある種の障害や籠や壁のようなものがあることを感じるのだ。
こうした想像は、いっさいが夢想なのだろうか。ぼくにはそうは思えない。だからぼくは、自分自身に問うのだ。「さあ大変だ。これは長く続くのだろうか。永遠なのだろうか。未来永劫に続くのだろうか。」と。
きみは何が監獄を消滅させるか知っているだろうか。それは、十分に深い本物の愛情だ。友人や同胞となること。愛すること、こういったことが、他を凌駕する力や強く魅了する力によって、監獄の扉を開くのだ。こうしたことを持たざる者は、人生を奪われたままとなる。
けれども、同情が生まれでたところには、人生が生み出される。
時に監獄は、偏見、誤解、致命的な無知などの諸々であり、疑心、偽りの羞恥心と呼ばれるものなのだ。