ゲスの極みが復活した。12月31日のZeep Tokyoでのライブでの活動停止から約3ヶ月という、気の遠くなるような短い、短い活動停止期間を乗り越えて。復活した。
それは3月31日に発表された。僕がそれを知ったのは4月1日だった。
「うそをついても良い日」だったので、それなのかと思っていた。しかし違った。オフィシャルも更新され、プレスリリースもされて報道機関がそれを報じている。
具体的な以降の活動もアナウンスされた。発売中止となってしまったアルバム「達磨林檎」を5月10日にリリースして、Zeep Tokyoでのライブも行うとのこと。
ゲスの極み乙女。は、死んでしまったと僕は思っていた。
そして、ゲスの極み乙女は「殺された」と思い込んでいた。
その殺しの犯人は、「ゲスの極み」である、顔の見えない無理解者や、ネタとして嬉しそうに扱うに正義感に酔ったテレビの人たちによって、長期間に渡って決行されてしまった。
そう、思っていた。それは思うだけではなくて、「活動停止」「所属事務所 SPACE SHOWER TVとの契約終了」という事実によって、それははっきりしてしまった。
しかし、復活した。
ほんとうにほんとうに、気が遠くなるほどの短いブランクを経て、彼らは復活した。
なんでだろう。この短いブランクが、また彼らが、真の「ゲスの極み」の逆鱗に触れて、また彼らを傷つけてしまうかもしれないのに。
攻撃にあっている最中にある人が、絶対に口にしてはいけない言葉。
それは「自分は悪くない」ということだろう。そしてそれが一番言いたい言葉でもある。
僕は、彼、彼らは「悪くない」「悪いことはしていない」と思っている。
不倫なんて、僕には何の関係もない。その相手が誰だったとしても。未成年飲酒なんかも、どうでもいい。僕は酒なんて飲まないけれども、高校生の時にお友達の付き合いで少し飲むなんてこともあった。みんな、そうでしょう?違うの?
しかし、世間はそれを許さず、彼らの存在意義を全て否定した。
アル中だと思わしき、「お昼の顔」さえもそれを否定した。
彼らの存在意義を理解していなかったからだ。
不倫相手と同様に「タレント」して扱っていたからかもしれない。
そのバンド名から、色物と捉えられても仕方がないのだが、困ったことにそして当然なことに、その名前は自ら付けたものなのだ。このバンド名を付けた時点で、「理解してもらうための高いハードル」が設けられる。
理解ができない。
人は、理解ができないものを拒絶しようとする。
「意味わかんない」「何それ」「あやしー」
バンド名だけで判断されてしまう。仕方ないことだと思う。特に彼らの音楽性を理解しようとせず、言葉だけでは判断してしまう人たちにとっては。
そして不倫、未成年飲酒などの「ゲス」な事実、不倫相手が国民的な人気の「タレント」だったことが、攻撃者達のカタルシスを産み出し、言葉の武器、多数という最強の後ろ盾を経て、抹殺した。
彼は悪くない。
彼らは悪くない。
僕はそう思っていた。
彼らはそれらに負けたかのように、停止してしまった。
それがあっという間、ほんとうに気の遠くなるような短さにて、復帰した。
嘘をつく日の一日前にアップロードされた「心地艶やかに」は、発売中止になったアルバム「達磨林檎」に入っている曲で、活動停止の前に制作されたものだが、その当時の彼らの苦悩がそのまま表れているように聴こえる。
PVは「恋人同士と思われる男女の接吻シーン」が主に展開される。それは複数ある。「それ以上」は表現されない。ひたすら接吻だけ。
歌詞はもどかしい、どうやっても本当の気持ちが伝わらない、けれどもそれに陶酔している彼の姿が見えるような変な曲だ。変な曲。彼が「ゲスの極み乙女。」で作った曲のほどんどが「変な曲」だった。そして今回もそうだった。
その歌詞にはメッセージ性には乏しく、というか、言いたい事がベールに隠されて包まれて、表れている。彼以外の人には理解しようとするには難しいだろう。
その歌詞に付けられるサウンドは、これまた理解ができないほどに独創的で、また「上手い」上手いのだ。演奏が。アレンジが。
しかしこの曲のPVには、とてもわかりやすい。「ゲス」なほどにわかりやすいメッセージが込められている。
これは・・・「無料通話アプリ」だろうか。「無料通話アプリ」というのは、テレビが使っていた通称だ。普通の人はそんな言葉は使わない。
スマホ(スマートフォンの略称)でカップルの接吻が盗撮される。
無料通話アプリが、エラーを起こす。そして動かなくなる
彼はスマートフォンを手にして高くあげる。
それは破壊された。壊れてしまった。
極めてワイドショーにネタにされそうな、極めてゲスなPVだと思う。しかしこのPVの言いたいことは、それではない。「自分の情報が流出してしまったことにむかついてスマホを破壊した」ことがメインではない。
これが、彼の言いたいことなんだろう。
哀しい。哀しさ。それは「ゲスの極み乙女。」の音楽に常に付き纏ってきた。それは彼らの音楽を好きな人だったら、わかっているだろう。
今回も、高らかにそして艷やかにそれらが表現されている。涙を流している。涙を流すのは、無常観に捕らわれてのことだろう。そうでないと人は泣いたとは言わない。
しかし、それはおそらく「ゲスの極み」の彼らには、伝わらない。「ゲス川谷 スマホ破壊ブチギレPVで復活」なんて見出しが付けられたニュースが出るかもしれないのに。
こんなことをやっている。そうだ。彼らこそ、真の「ゲスの極み」であり、そして彼らを批判する人たちも「真のゲスの極み」なのだ。
自らを傷つけるようなPVを作ってでも、言いたいこと、感じていることを伝えようとした。ベースの「休日課長」のユニットに、ボーカルの彼が曲提供をしたことにさえ、「自嘲すべき」などと、言われてしまうような惨状であるのに。
アルバムが、本当に楽しみです。
前のアルバム「両成敗」も素晴らしかった。彼らの音源は、どれもこれも素晴らしいのです。
「若者だけが聴く音楽」の代表にしておくには、相応しくない、高度に狂った真のロック・ミュージックなのですが、おそらく伝わらないかもしれない。もう若者ではない、40歳の僕が言っても。
それを感じながら、この「心地艷やかに」を聴くと、ベールに隠されたほんとうの気持ちが少し伝わってきたような気がして。すごく切なく鮮やかな音楽に、今までに彼らから見えなかったものが、聴こえたような、そんなことを感じた、寒い寒いウソみたいに寒い4月1日の朝でした。
最後に、「ドレスの脱ぎ方」という2013年にゲスの極み乙女。がリリースしたミニアルバムに「ゲスの極み」という曲があるのは皆さんご存知でしょうか。
ここに「ゲスの極み」という言葉の意味と取れるものがありましたので、紹介します。
ゲスの極み / ゲスの極み乙女。 の歌詞 (2410120) - プチリリ
僕は望んで非日常を過ごしている
とんでもない
とんでもない非日常さ
みんないつから
暗い問題提議ばっかりするようになったんだ?
本当はゲスだって言っちゃえよ
本当はもっと気持ち悪いこと
考えてるくせにさ