静かなるものは、語らない。いつか消えていくものは、何も残さない。
だけど、その輝きを記憶しているものには、永遠に残っていく。消えていったものなのに、そこに残り続けるから。
小袋成彬という人を、僕はよく知らない。なぜ最初に聴いたのかもよくわからない。僕はシンガーソングライターの音楽というものは、余り好きではない、特に日本の男性シンガーソングライターなんて、あまりというかまったく興味がない。彼ら、とくくってしまうのは、乱暴だけれども、共通することは、「サウンドへのこだわり、挑戦が全くない」という、偏見ともいえる考えがあった。
しかし、前にブログで書いたように、彼のサウンドには感じるものがあった。
いつしか、この「分離派の夏」の待ち遠しく、しかしすっかり発売を忘れていた自分もいた。ある日突然、Apple Musicに先行配信分を除いて全て勝手にダウンロードされていたのだ。聞かなくてはいけないのだろうか。「分離派の夏」の意味も全くわからないのに。ネットの利点である「Google」でまずは「分離派」で検索してみたけれども、さっぱり何がなんだかわかることもできない。絶望である。絶望だ。「分離派とは何ぞや」というところからはじめなくてはいけないなんて!
このコブクロいや失礼大いに失礼小袋成彬は、アルバムの最初から、最高に人をなめたことをしてくれた。「042616 @London」と題されたトラックは、いきなり、彼の友人、ロンドンに住んでいる友人の、一方的なインタビューの語りからはじまる。川端康成がどうこう、伊豆の踊り子がどうこう、川端康成が、いったい何を考えているのだろう。そりゃあ ノーベル文学賞取ったけれども、今どき川端康成なんて読んでいる若者が、いるという事を知ってしまった、どうしたらいいのか、更に、三島由紀夫、ベートーヴェン、宮﨑駿がどうこう、芸術がどうこう、作品を残すかどうこう、いきなりファーストデビュー・アルバムの冒頭にて、こんな事を語るだけのトラックを入れるだなんて。彼はもしかしてほんとうの基地外なのではないのでしょうか。しかも、他人の語り。意味がわからないのです。
でも、親近感を感じた。同等だと感じてしまったから、自分と。
その後のトラックは、内省きわまりないもの。音響でその内省を表現していると感じた。ひつようの無い音を廃した世界は、すき間から誰かの叫び声が聞こえてくるよう。ほんとうの明けないでもここち良い闇がそこにあるような気がする。
ひつようの無い、音の世界が語りかけてくる、何かを。なくしたもの、うつくしいもの、ながれていったもの、そしてながされてしまった自分を。影はいつでもそこにある。
計算されつくされているのは、空間的なエフェクトだけではない。人の手による、数え切れないデコレーションが絶え間なく、さり気なくいつも流れていて、潤沢なコーラスが耳に華を添えてくれる。彼以外の人の声も表れる。でも、実態の無いような声も。
彼、小袋成彬の声は、宇多田ヒカルが指摘していたとおり、稀有なものである。生命力にあふれているのに、力がはいっていない。ゆううつな彩りに満ち溢れた世界の説得力を支えるものだと感じた。そしてトラックメーカーとしても自立をしているということもわからせてくれる。見える世界を音でも見せてくれる。言葉だけに頼っていない。日本のSSW、ならびにほとんどの「ジェイポップ」は幼稚な世界のまま。そこにとどまっている。彼はほんとうの意味での、自立をした大人の精神世界をみせてくれる。
どの曲がどうこういうべきではない。あらがえないリアルな絶望と希望がここには存在している。映画というものにも近いのかもしれない。かならず終わりがある、音楽にはかならず終わりがある。そして、人間にもただ限られたひとときを、過ごすだけ。
静かなるものは、語らない。いつか消えていくものは、何も残さない。
だけど、その輝きを記憶しているものには、永遠に残っていく。消えていったものなのに、そこに残り続けるから。
終わり