今日、いつも通る通勤のバス停で、僕の好きなところが光輝いて見えました。
そこは大きな公園の入り口で、たくさんの木にかこまれて、公園へと導かれる坂道があるところ。晴れた日は、木に光があたって、とても美しくて、そこにバスが止まったときは、どんな天気でも見るようにします。
今日は、そこの木の枝と枝の間から光がダイアモンドのような輝き、という常套句しか浮かばなくて恥ずかしいけれども、それがいくつもいくつも見えて、豊かな心が湧き上がるのがわかりました。
ああ、素晴らしい自然だ。
そして、なんて自分て素晴らしい感性の持ち主なんだろうと、思ってしまいました。
しかし、このような感情の揺れ動きは人間にとって、とても大切だと思うのです。そうではないでしょうか。
本当でしたら「ああ、今日はすばらしい景色を見たのですよ」なんて、すぐに分かち合える人がいるはずです。しかし、そんな人はいないのです。
かつて、音楽学科ピアノ科の友人たちにそんな話をしたら「まあ、素敵。見てみたいわ」と皆、言うでしょう。そのような人達にまためぐりあいたいのに。
ああ、孤独だなあ。芸術家は。。。
なんて、芸術とはかけ離れた、くさったサラリーマンでしかない、ということもわかっています。くそみたいな事務仕事をさっさと終えて、「今日だけしかない空気を味わおう」とサッと外に出ました。
今日は素晴らしい天気でした。雲が少なくて、ひたすらに青い空。蒼井そらでした><
風が強くて、少し肌寒い。カーディガンを羽織ってきてよかった。ユニクロだけど><
こんな、くそつまらない会話ですら恋しいのでしょうか。
お昼はおいしい自作の弁当を食べました。
おいしいというのは、ちょっと大げさですね。今日はいまいち弁当でした。なにしろ朝に急いで「詰めた」のです。そうです詰めました。しかし、ピーマンは自分で切ってごま油で味付けをしました。ごま油が他に広がってはいけない!と感じて少なくしたのが失敗でした。味が薄かったです。。
その後は、先程の「芸術的感性を取り戻したい」と考えて、いつもの「外から丸見え壁なし」の避難場所のカフェに逃げ込みました。
そこで、私は今日持参をした本を読みふけりました。なんの本なのかは明かさない。そんなのは個人情報なのです。明かさない。ヨーロッパのある国のある場所が舞台の美しい、そして悲しい物語でした。大した事件もなく、一人の人間が一人のことをずっと思う。ずっと思っている描写がひたすらに続くのです。美しい形容と情景とともに!
アイフォンで音楽も聞きながら、それは100年前に死んだクロード・ドビュッシーの曲、「ピアノと管弦楽のためのファンタジア」でした。かつてNHKホールでNHK交響楽団の演奏にて、聴いた曲です。
身も耳も心も、芸術的な感性、ヨーロッパ的な感性を取り戻した自分に気づきました。
そのような高揚の中、もうひとりの自分、こころの中にたゆたう自分をまた見つけられた。「これは収穫だ」と、席に戻りました。
特にやることもなく、やることもありませんでした。何をしたのかが覚えていません。しかし、現実に抗うこと。心の中にできた襞をなくさないようにと、ガードをしていたことは事実です。
そして、私は外の空気を吸いにいきました。またです。
夕景を待っていたわけではありません。犬を待っていたのです。今日はかわいい小型犬をたくさんみかけました。「おおよしよし」なんて話しかけたかった(南野陽子の名曲)ですが、そんな勇気はなかったのです。なんのこれしき!
しかし、今度は枝葉が夕陽と照らし合わされて、影絵のようではないか!とカメラでとってみたのです。写真では伝わらない。すぐにわかりました。動く大きな影絵が天空に照らし出されるなんて、素敵なことではないか。ああ、芸術だ。
これは、何かに活かそうなんて思いません。そんなことを考えてはいけない。いまは、このように過ごしても何も問題がないから、とかそんなこともやはり考えてしまうのです。ああ、苦悩の日々です。
もうすぐ、終わるかもしれないのに。。審判のときはすぐそこ、であってほしい。芸術家は孤独であり、そして陶酔の極地の毎日なのです。でも、許してなんて思わない。
終わり