さわやかトラウマ日記

さわやかな音楽ブログです from 2004


さわやかでまえむきな人間になりたい男が
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2020年の目標は……「空想の片手間に生活をする」です

いよいよ2020年になりましたね。

「いよいよ」とか付けて何か無責任すぎますよね。なにゆえに全体化をしようとしているのか。「いよいよ」は何か期待をすべきものがそこにあったという前提の元にあるものです。それが何の期待も無い同士に用いてしまうのは、誤ちに違いありません。ほんとうに申し訳ありませんでした。

なぜ、このような理詰めになってしまうのか。それが今の自分は空虚、カラでむなしい人間に成り果てているからに違いありません。「違いありません」というのもおかしいです。「違う前」をしらない人たちに「違いない」というのはおかしいです。

ああ、こんな感じです。私は混乱しています。

 

生を流していると、どうしてもこうなってしまうものだと考えております。齟齬がでてしまう。誤解もでています。誤読も出てしまう。つまりブログにこう書くことも無駄なのかもしれないのです。

そこで考えました。いやここは「考えましたとさ」という他人の語り部口調の方がふさわしいのかもしれない。そうです。今、自分は他人の語り部のおとぎ話にように、自分の事をかたったほうがいいのかもしれないとさ。そうですなのとさ。

ある意味での自分は決意をしたという。今年は空想の片手間に生活を行うということ。

 

世の中には空想で「しつらえた」ものが膨大にあふれている、ということは皆様もご存知でしょう。しかし、空想にもいくつかのパターンがあるのです。たとえば「産業空想」これは、空想にて産業を産み出しお金に帰る、それをゆくゆくは「不労所得」に帰るという目標指標(コミットメント)に設定する、というもの、それが「産業空想」です。

「たとえ産業であっても個人の自由ではないか。”感じ方”それが大事でしょう」と思われるかもしれません。しかし、その”感じ方”とやら「産業活動の結果」によって変わってしまうことも考えられます。「アウトプットされたものを自分で消化をすれば良いのでは」と思うのかもしれません。どうなのでしょうか。それも所詮「産業空想」の中の歯車の一部にしかすぎないのです。あなたの感情は、今はパソコン上のデータにて、管理されているということ。空想もその先にあるのです。具体的に言いますと、それら「ソシャゲ」略さないと「ソーシャルゲーム」がそうなります。「…今日のガチャは来るきがする」「これに賭ける。かあちゃんごめシ…」なんて思ってそれを引くのでしょう。その時には、コンピュータの前で社員が…なんてこともないのです。あくまで過去のデータに添って数値が自動的にコントロールされているのです。ああヴァーチャル・インサニティ。それも良く「かわいいキャラクター絵」を手に入れたとしましょう。「かわいい◯◯さんが手に入った!私の産物ゲツ」なんて思うかもしれませんね。しかしその「かわいい◯◯さん」を描いている「描き手」はごくふつうの当たり前に実在をしている人間。だなんて。実在しない。そんな事は当たり前です。私はそこで新しいもの。その「◯◯さん」を更に自分の中の空想で消化してこそ、の「産業空想」の理想的アウトプディングだと思うのです。「◯◯さんは、実は私が王を務めるマエムキ・キングダムの女王であり、いつも手には赤ら顔の少女の人形がある。それには私と王女だけにして行けない、秘密のプチ・トリアノン(小王宮)への秘密が隠されていて…。ああ、それを消しさろうというヤカラが這いつくばり!王女を!!」

などと、しないのでしょうか。もしかいたら「同じ人」らによって作り出されているのかもしれませんね。私はそのようなものには興味はないのが、残念ではありますが。

 

「産業空想」への言及はこのあたりで止めておきます。

私は「生活空想」をしようと考えています。

意味合は、これも「産業空想」と同じようにそのままです。

 

今、個人的には生活がすべて「くそ化」をしています。これが現実だなんて、耐えられない!しかし「くそ化」は弱体化しつつもある状況であり、忌まわしき「クソ化」が全てを侵食をするということはなくなったのです。だから、なので、この「弱冠のくそ化」生活を、もうひとつの世界と変えて、そちらを現実として、「くそ化」しているものを、悪しき世界として、こちらをある種「亡き者」とすべき、そうしようと考えたのです。

「なんだかんたんじゃない」「基地の外にいるあなたならかんたん」だと、思うかもしれません。でも大変なのですよ。それは全てが生活のか、た、て、まなのです。今までのくそ化世界と同じ価値観ではダメなのです。

どうしたらいいのか。どうしたらスムーズな意向が図れるのであろうか、と実はそれは、数ヶ月前から散々と昼間に考慮をしていた次第であったと告白しましょう。

2台のピアノがある練習室にて、和音のみの即興演奏のバトルを開催した
・お互いが似たような音感と、まったく別の感覚を持っていることに気づく
・正反対のお互いが、それぞれ異なる部分を自身に導入をした際にはどうなることか
・まずはお互いの相違点を洗い出そうとする。
・傾向をリスト化する。その上で、分析をして互いの意識に持ち込み、その後の作曲活動に変化があるのかを探る。
・その前にシロ→ クロ→(モティーフはあとで決定)を作曲し披露をし合う
・意識の交換は動作ではなく、己の意識の配下において行われた

 この文字のスケッチは、数ヶ月まえに私が昼間につま弾いたものです。ある物語を書こうと思い、そのスケッチを引用いたしました。

なぜこれを引用したかというと、前述をした「生活の片手間に空想をするために、もうひとりの自分を持ち、そちらを現実として”くそ化”はそれ以外にする」という為の指針なると考えたからです。ここでは、ある2人の人物がお互いの強い共通点と、強い相違点を感じた上で、意識を入れ替える、「意識の交換」を行い、何かを生み出そう、新しい世界を互いに作り出そう、という試みに関して言及をしたものです。

わからないかもしれない。これはあくまで、書きかけの物語中の「Sketch」なのです。まあ、わかりやすくいうと、自分の中の「非くそ化」の人物になりきって、生活をしてみたい、ということ。
 
大変残念ながら、このブログも今の自分にとって現実でしかありません。
ああ、くそなのです。だから、なので、ですから、ここをもっと己の夢想、いや現実に近いものにしたい。そう強く考えているのです。おわり