自分の内面はこくこくどうどうと変化をし始めていて、他者を廃した生活を送ることにより、無駄な惑いに惑わさせることも無くなったことで、より自身の中にある者との対話をするようになりました。
ここまで書いて、あなた思うかもしれない。「この人ヤバい」と。
なんて愚かしいのだろう。ほんとうに愚かしい。しかし、わたくしは自分が愚かだとか愚かしくないとかは全く気にしないのです。
敬愛するロシアの作曲家アレクサンドル・スクリャービンの言葉にこういうものがありました。
「世界は、本能的に神を求めている。わたしは世界であり、神を求めている。それは自分が追求しているものが自分自身だけだからである。」
「わたしと神の間には区別がない。したがって私は神である」
これはスクリャービンが自分自身の哲学を求めた時における、メモの中の1文です。この文章を見たときに、自分の中に激しく心臓に閃光が落ちやがて何かが崩壊していくような、風景と汚らしいどろと草に塗れた下界の風景が、見えたような気がしたのです。
神秘主義。
神とは自分の中にあるようにすること。そうです。自分自身こそがほんとうの神であり、神を超えるものは、それしかないのです。
なんて素晴らしいのだろう。
しかし、私の中に、今、神はいません。信仰心が無いのです。
なぜだろう、ずっと疑問でした。東南アジア諸国に出向いた時に見た、熱心な仏教徒の祈りの姿を見て感慨深いものを感じもしたのに。バンコクのインターコンチネンタルホテル近くにある「エラワン・プーム」という祠には、前の道を通りすがるバスの乗客でさえ、手を合わせていた。「ワイ」をしていた。あのときのあの感動。そして、疑問。い、け、な、い疑問が湧いてしまったこと。消そうとしても消せなかった気持ち。
「私こそが神だ」
冗談めいてつぶやいていた、こころの中でささやていたその言葉が真実だったなんて。そうだ。そうなんだ。
われこそがわれの神でしかない。だから信仰心がうすいのだろう。そうなのだろう。
まだそれを実感するまでにはいたっていないのは、長らくの唯一の自分以外の神、そして神にも相当しないモノ達からの引導によるものだろう。それらを排泄しなければならない。そして浄化をするべきなのだ。だから、瞑想が必要なのである。空想などという絵空事ではないもの。きっとそれが良いはずだ。
わたくしは瞑想をする。神として。自分自身が神であるという真実、焔に向かって。
以上。
2016PTNA特級二次 村上智則/スクリャービン:詩曲「焔に向かって」Op.72