逸脱していることは認めます。
自分のような老齢たる男が少女漫画について連ねることは、まさに悪夢のような体験を読んでいただける皆様に対して与えてしまうということも、認めます。しかし、創作物には年齢性別は関係はないはずです。この美しき鬱くしき日本においてそれは顕著でしょう?だから問題ないのです。
大島弓子は自分の「生涯三大漫画家」の1人であります。三大と書いたものの、他の氏は思い浮かばず。別項において「生涯三代漫画」は決まっており、それはサザエさん、ガラスの仮面、美味しんぼという何れも国民的な漫画ばかりなので、安心してください。
そうなのです。自分は中庸であり、凡庸でもある。そんな人間なのです。
しかし、自分は今現在くるしんでいる毎日があります。それがある意味において逸脱をしておることでもあります。それが「毎日が夏休み」だということです。
ああ、なんということ。この苦しみ。誰もわからないのと思います。ただ何気なくすごしていることが、苦痛で仕方がない。何もない生活。ほんとうに悩んでいるのです。そんな自分の救いをこの漫画のタイトル「毎日が夏休み」に求めたのかもしれません。
自分も、毎日が、なつやすみ、ほんとうにそうなのか、、果たして、、と。
この作品は、前に少し読んだことがありました。田舎の図書館でなぜか「大島弓子選集」がたくさん貸し出しをしていて、そこで借りた読んだのです。
なので、ある程度の内容はわかってはいました。これは「毎日が夏休み」という素晴らしい夢のようなそのままお話ではありません。「毎日が夏休みになっちゃった親子」がいました。親は失業、娘は登校拒否。互いにそれは秘密にしていたのに、森の中(ここが大島弓子っぽい)でサボっていたところで偶然ばったり出会ってしまった。そこで、父親と娘が「とりあえず働こう 会社を作ろう 便利屋を開業しよう」という話しであります。
そうです。「毎日が夏休みでたのしー」というわけではなく、「毎日が夏休みになったから働こう」という話しだったのです。しかし、そんな単純な話しでもなく、大島弓子らしい感情の揺れ動きなどはもちろん描かれます。ここに無いのはロマンス。ロマンスはありません。なくていいでしょうそんなものは!毎日が夏休み人間にはロマンスを嗜む余裕など無いのです・・。ああ。厳しいですね。私のような複雑な状況を持つ主人公たちではなかったのです。ああ。あ。
でも、こんな発見もありました。
自分は今、まるで漫画の登場人物みたいな毎日なのではないかと。
どう考えても今の自分の生活は、非現実的なのです。大島弓子さえ超えてしまうほどに。どこがどのようにそう感じているのか、いちいち説明するのは野暮であるし、伝える必要もないですよね。やはり逸脱しています。ちな逸脱とは
逸脱(いつだつ、英: deviance)は、平均的な基準からの偏向の総称のこと。
一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、 その上に「ルールから外れた望ましくない」という道徳的裁定が込められる。
そうです。望ましくないのです。自覚はしているのです。道徳的裁定は込めているのです!どうしたらいいのだろう。答えはまだ見つからない。
感想文というより、自分語りになりました。すみません。終わり