これには布石があり、週刊文春にギネスブックに掲載された長期連載を誇るエッセイにて、スキャンダルが続出していた母校に対して「理事になって日大を救いたい」「おばさんパワーで日大を変えたい」と書いていたのだ。その後「ああ書いたのに、何も連絡が来ないワ」なんて愚痴も書いていた。
それが理事長になるなんて。「囲み会見」を受ける様子もあった。まるで芸能人のよう。
「囲み会見なんて久しぶり。80年代にフジテレビのキャンペーンガールになって依頼のこと。テレビで見た私の顔はむくんでいてダイエットが必要ネ」だとかまたエッセイに書くのだろう。
林真理子のエッセイを読んでいる人は、いつもこう思っているのだろう。
「なんで林真理子ごときが、こんなに良い思いを…」と。
薄々とでも自分との比較にて、差をつけられていることに少しの憤慨を覚えて、それを楽しんでいるのに違いないと思う。
それは林真理子は自他ともに普通の人であるということが大きいのだろう。山梨出身の田舎娘。容姿は自身をモデルにした小説では素直に「ブスでデブ」な主人公が主役にしている。もちろん「ブスでデブ」と直接的には書いてはいないけれども。
「ブスでデブ」な田舎娘にも、青春があったし恋もあったということを書いた小説が「葡萄が目にしみる」であった。男の小説家では描くことができない女子間のヒエラルキーを冷静に見つめて、見つめすぎてしまったことによる心の葛藤を描いた名作だ。
それは、ありきたりではある。誰にでも思いつくこと。だから魅力的なのだろう。
普通の女。林真理子は普通の女。でも決して追いつけない。もう普通の女ではない普通の女の時期が長く積み重なってしまったのだ。
そして日大理事長の就任である。もうとうてい追いつけない。いくらギネスブック掲載のエッセイでダイエット失敗ネタを書いても、老いに対するグチも書き連ねても、もう「ダメな林真理子」を見出すことが、年々難しくなりつつあるのかもしれない。
だから、差を付けられてしまったことがくやしい。でも正直それが楽しい。
もっと林真理子との差を楽しみたい。そのような被虐もまた快感なのかもしれない。チクショー!
終わり