タイトルの通りです。ブログを更新をしていないということは、良いことなのだと思ってください。
現に、リアル世界が充実をしている人はネットなんて見ない、見ても息抜き程度。そんな感じなのだと思います。リアル界でリアル良い生活を送っている人同士で、なんとなく見ているだけ。ツイッターなんてそんなに見ちゃいないのです。そうですよね?
ネットのコミュニケーションの世界はネット界が思っている以上に狭いということが持論です。そんなことはないのかもしれないけど、ネット界よりリアル界の方が広いですよね。しかしネット界だけに潜む人、そこだけに居場所が無い人は、自分が見ている画面の中のことがすべてになっている人もいると思うのです。
世の中は広い。いろんな価値観がある。今、自分が見ていること感じていることだけでがすべてではない、当たり前のことですが、そう感じます。
コロナが蔓延をして、人々は外に行かなくなりました。人との会合もよくない、旅行もよくない、海外旅行に行けそうにありません。どんどん狭くなっている気がするのです。価値観が狭まって、視野がせまくなる。ネットがそれを広げてくれるものかもしれないけど、やはりそれはネット界だけの常識にすぎないのです。
ネットの界でよく言われている悲しきこと、外国人にたいして一概に〇〇の国の人はみんな××だ、なんていうものがその象徴だと思います。その国の人がみんな〇〇だなんてことないですよね。
また林真理子 日本大学理事長を例に出してすみませんが、真理子が炎上をした「いい加減にしてよアグネス」という週刊文春に寄せた文(文庫本「余計なこと、大事なこと」に収録)の中にこうありました。
最後に締めくくりを、曾野綾子さんのこの文章でさせていただきたい。いまから二年ちょっと前、アグネスはエチオピアの難民キャンプを訪ねた。その時見たものを、彼女はまた例の調子で書いたわけだ。
「私が出会った人はみんな礼儀正しかった。いい人たちばっかりだった。無表情で感謝の心がないと書いた曾野綾子さんは、いったい何を見てきたんですか」
曾野さんの文章から私が外国の紀行文を書く時のルールは、たった一つです。それはある日、私がそこにいた時、こうだった、と書くだけです。それがその国の普遍的な状況だと言う言い方は、私はしないことにしています。私は学者ではないので、普遍化ができないのです。
しかし私は、自分の目に映ったことをあなたから違うと言われると『ああそうですね、違っていました』と言うわけにもいきません。あなたは私の書いたものが、自分の見聞きしたものと違う、と非難しておいでですが、私は違うほうが当然だと思います。僅かな時の差、運命に似て出会う人々が違うこと、それを見る人の心や眼や、それらすべてが違うのですから、見えるものが違うのも当然でしょう。
しかし『どこそこの人は皆いい人です』という式の言い分は、あなたがおっしゃる分には少しもかまわないのですが、大人は少し困ります。なぜなら、そういうことはこの世にないからです」
太字にしたのは論旨を明確にするためですが、ここで大事なのは「僅かな差で見えるものが違うのは当然」だということです。実際にネットではこのようなことは無理ですよね。編集された文章や動画でしか、物事を見られない。それが分散をしていても、あくまでレディ・メイドされたもの、それは自身が能動的に見たいものにすぎないのです。
なので、ネットだけには真実はないと考えています。判断ができるのはここだけではない。と考えているのです。
なので、ブログの更新も滞っているのです。これは無理がありますね><
終わり