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ピアニストとして現存では最後の大物に一人だと言えたポリーニがなくなった。
彼のリサイタルを観た時には、すでに老齢が感じられたので、覚悟はしていたけれども。しかしその時は2010年。まだ逆算してもそれほどの老齢でもなかったとも気付かされた。観た席がサントリーホールの最後列だったから、その姿を正しく見ることはできなかったのかもしれない。
しかし、このリサイタルは生涯の音楽体験の中でも最高ものだったと断言できる。かなり前の事ではあるけど、今でも体感は身体に染み込んでいると感じるほどだ。
ポリーニのコンサートのチケットを買ったのは、売っているのをネットのチケットサイトで見つけたから、という他には無い。それが最後の1席くらいだったというのは記憶している。値段も記憶している。A席で2万円だった。
当時は豊かというわけではなく、2万円というものは大きな出費であったのであろう。価格を覚えているのだから、覚悟がいったことは確かだ。
僕はピアニストに対して特に好みというものは無く、みんな凄くて素晴らしい。自分のような人間がCDを買って聴くような人は概してみんな素晴らしいという、単純な思考の持ち主である。
よってポリーニを特別視していたわけでもない。が、当然知っていた。
このショパンのプレリュードのCDを若い頃に買って聴いていた。他にあったような気はしたけど、この日もこの曲が演奏曲としてクレジットされていたのは、偶然だった。
ステージに登場したポリーニは小さく見えて、前述のように老いてみえてしまった。音はやはり素晴らしく、これが本物なんだという感慨はあったけど、それがつまらない感想だなと自分の中では正直あったのは覚えている。そして演奏にいくつか傷もあったけど自分はそれはあまり気にならないタイプだ。自分がそうだったからかも。。続くのはドビュッシーの練習曲第2集から。
これは後にポリーニが演奏するCDを買ってよく聴いたけど、この時のものをもう一度という気で買ったわけではなかった。
ドビュッシーの練習曲集はドビュッシーの作品の中でも最高傑作であり、最高難度の曲としてよく知られている。相当な達者で無いと弾けない曲であり、解釈も難しい。表題音楽(月の光とか)ではないので、聴き手には自由さはある。ポリーニは容易にこの難曲を弾きこなしており、かえってその精緻さがドビュッシーの求めるものなのであったのだろうと自分は推測した。
そして、この日のメインプログラムはピエール・ブーレーズ ピアノソナタ「第2番」だった。
この曲はポリーニが弾くテイクがストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3楽章」がメインであるCDに収められていて、事前に聴いたような、聴いていないような。
しかし、そんな事がどうでもよくなるくらいの演奏だった。
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まず、この曲は所謂現代音楽であり、作曲家であり指揮者でもあるブーレーズの作品である。聴いたことがなくてもなんとなく想像がつくと思う。もし↑の動画を観ても、それ以外には感想ないと思う。よくわからない音楽だと。
実際、弾きはじめた時には、これが4楽章も続くのかと思ってしまった。
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しかし、次第にこの散りばめられた点と線のような音列が、無為な物ではなく、流れとして存在をしているようなものだと感じ始めた。これらには必然があり、意味を成すものなのだと。
この音楽には一般的な和声や旋律が無く、そして形式はあっても、すぐに感じとれない。そして表題もない。タイトルは「ピアノソナタ第2番」という絶対音楽のものだけ。章が進むとダイナミクス、音の大小が大きくなるが、緊張感は続いたまま。次第に終盤に差し掛かると、自分の身体が浮くような感じもしたのをよく覚えている。
ポリーニはそれらを司る審判のようなピアニズムをそこにぶつけていた。理知的に。
4楽章になったあたりで、自分は確信をしていた。これが音楽そのものなのだと。前述のようなが音楽の三大要素のようなものは、ここには存在しないように聞こえた。だからこその表現なのだと。まだよくわからないけど、今までにしたことのない音楽体験を自分はしているのだと。それが良いものなのか悪いものなのかがわからずに、ただ畏れと厳かさを感じていた。次第に、その感情が尊いものでもあるとも気が付き始めていた。
曲はおおよそ30分弱、ひっそりと終わった。
会場はしばらく静寂に包まれていたと思う。仕方ないと思う。事前に準備されたような感動がここにはなかったからだ。
やがて、弱き拍手が聞こえたと思ったら、その波は次第に大きくなっていた。そして歓声も。やがて会場全員が立ち上がった。スタンディング・オベーション。皆がこの演奏を理解していて、素直に素晴らしいものだったと認めていたんだと気がついた。
そして自分も立ち上がって、拍手をした。普段はあまりしなかったけれども、この時にはそうしたかった。
そこに至るまでの特殊な時間の長さも含めて、素晴らしい体験になったと思う。
この日の演奏にポリーニが手応えがあったのか、アンコールが計4回もあった。
その中にはドビュッシーの前奏曲集から「西風の見たもの」があって感激した。感激した理由は、自分がこの曲を過去に試験で弾いたことがあったからだ。
さらに4回め、最後のアンコールに登場をして、何を弾くんだろうと思ったら
弾きだしが「C」の低音のオクターブの長音符だった。その途端、会場から少し声が上がったのを覚えている。それだけで何の曲かわかった人が他にもいるんだと。
その曲はショパンのバラード第1番。この曲はおおよそ7分半くらいある曲であり、アンコールの曲として演奏される事は少ない曲だろう。ましてやベテランのポリーニが4回目のアンコールに弾くだなんて。観客のことも考えていてくれたのだと感じた。
後日、ポリーニの弾くブーレーズのピアノソナタ第2番のCDを聴いてみたが、あの日の感動が蘇ることはなかった。やはりコンサートで彼の演奏で聴いたこと、それが大きいのだろう。音というものは空気の振動である、よって、その場でしか得られないものがあるのだと気付かされた。特にクラシック音楽は生音、アンプを使わないものが基本である。出した音をそのまま聴くことになるという事もある。
音源というものは音源というもので良いとは思うけれども、生演奏でしか得られないものもある、そしてそれは限られたもの。以降もお金がなくてもクラシックのコンサートに行くようになったのは、この日の影響も大きいと思う。
しかし、ポリーニはもう亡くなってしまった。あの日の感動を彼から得られることは無いのだろう、それはもし生きていてもそうだったのかもしれない。音楽というものは儚く素晴らしいもの、それは人間の命と等しいものだということにも、気付かされました。
さようならマウリツィオ・ポリーニさん。ありがとうございました。