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「共鳴する音楽」に共鳴しました。 H ZETT M「共鳴する音楽」【レビュー】

 

共鳴する音楽

共鳴する音楽

 

 

H ZETT MH ZETTRIOとの出会いは衝撃的だった。

「ギターが一切入っていないロック」「ピアノが中心のロック」だということ。

日本のロック・ミュージックの中では異色といえる存在だろう。

 

そうなるとやはり、そのピアノの弾き手H ZETT M氏のピアノの腕前が気になるところだが、国立音楽大学作曲科卒業というアカデミズムの極みといえるような、凄いお墨付きだった。

 

しかし、そんなことは重要ではない。クラシック音楽においては、重要なことなのかもしれないけれども、「ポピュラー・ミュージック」においては何の価値もないのだから。

 

「音大に入ると頭が固くなる」と過去に僕に言ったショボいアマチュア・ロック・ミュージシャンがいた。

「ピアノが上手すぎるから、あえてバンドではドラムをやってくれ」と言われて、そのままドラムで参加したりした。

それらは皆、ギタリストたちだった。

 

日本のライブハウス・シーンにおいてギターは絶対的な存在で、ボーカルを超えるような尊大なものになっている。

ギターは大きい音量を出さなければならない。ギターの音の大きさからサウンドが構築される。

だから、他のパートの音は潰される。ボーカルが自分の声がモニターから聴こえないほどに。そんな人たちは極わずかなのかもしれない。僕が見てきたバンドたち、そして僕が参加したバンドもそうだった。

 

H ZETT Mのライブをまだ見たことが無くて、口惜しいのだけれども、ライブの映像を見る限り、ドラム、ベース、ピアノ、それが一体となっているように思えた。

そして、「主役が誰か」というのもはっきりしていた。それを主役以外達も認めて、サポートしていた。

 

ピアノが主役のバンド。なんて素晴らしいんだろう。

僕はピアノを弾いていて、好きなのだけれども、クラシックピアノを人前で弾くような腕前はもう無くなってしまった。

 

だから、圧倒的な腕前を持っているという断言出来る、彼、H ZETT Mには僕の憧れの人なのだ。

 

「共鳴する音楽」を聴いてまず思ったのは、1曲め「ショーがはじまる」

シンコペーションのリズムにて展開されるメロディが、同型で転調を繰り返されて、どんどん高みに登っていき、時にシンコペーションから外れて単純な八分音符になったりする。「この人」は高みあがることに対してすこし戸惑いを感じているのではないか。

なんて考えたりする。ショーが始まる前の演者そして観客の気持ちを表現しているかのよう。

「ショーがはじまる」のような、タイトル、標題がこの曲集には付いている。

繰り返されるシンコペーションと非シンコペーションによって高まっていくその曲調に「ああ、いよいよショーがはじまったんだ」と素直に感じた。

もちろん歌はないのだから、「ショーがはじまる」とされていたものは、曲の中の言葉にんないのに、それを感じさせた。

 

この「共鳴する音楽」は全26曲ある。

「全26曲入ったピアノ・ソロアルバム」という見方もあるだろう。

僕は、そうではない。

 

これは「共鳴する音楽」という名の「曲集」と感じた。

ショパンの「24の前奏曲」(実際は26曲ある)ドビュッシーの練習曲集(24曲)スクリャービンの「24の前奏曲

ここで挙げている24曲というのは意味があるのだが、まあ要するに「24の音階の全て別に曲を作りました」ということ。

しかし、これらの曲は、形式的なものではない。短い曲が、自由に、しかし作曲者の中の何かが共通していてそこには存在している曲達。

「共鳴する音楽」にも共通すると思う。短い、定形にとらわれない鮮やかな曲たちがならんでいる。これは「現在のショパン24の前奏曲」と言ってもいい!というのはちょっと違うかもしれない。全く違う音楽、「共鳴する音楽」はあくまでもポピュラー・ミュージックであり、クラシック音楽ではない。

 

「ポピュラー・ミュージック」の範疇でありながらも、「現代音楽」的な側面もあると思う。

2曲め「極秘時代」これはミニマル・ミュージックを基礎にしていると思う。片手で同じフレーズが延々と繰り返される。規則性のある音楽。そして挟まれる四分音符の極めてジャズ的な和声。

一柳慧という作曲家のピアノ曲「タイム・シークエンス」を思い出させる。機械のリズムをピアノ音楽に昇華した、1976年に作曲された斬新すぎる曲。H ZETT M氏が「タイム・シークエンス」を知っているのかはわからない。音大生だったら誰も知っている曲ではないのだから。この曲にかぎらず「ミニマルミュージック」への理解はもちろんあったのだと思う。

 

「音だけで表現する」ということに対して、タイトルをつけることによって理解が深まった例もある。

「クジラが泳ぐ」という曲。海を漂うかなような一定的な左手による和声が、どんどん濁ってその濁りが広がっていく。

一方、右手はゆらゆらと水辺を揺蕩うような優雅さで、左手のどん、どん、どんを見つめているかのよう。クジラが泳いでいる。クジラが泳いでいるのを表現しているだけではない、それを見つめている人がいるんだな〜なんて思ってみたり。

 

DISC2の1曲め「未完成ワールド」これほどにポジティブアレルギーが刺激されるような素晴らしい曲があるのだろうか。タイトル意外に、そのような言葉はなくても伝わってくる。ポジティブアレルギーなのに、刺激されてしまう。ああ、せかいはすばらしい!なんて思いたくなる。

 

「反骨ワールド」はこれはプロコフィエフだろうか、バルトークなんだろうか。遠慮の無い、暴力的な和声が歯切れよく展開されている。そしてあっさりと終わる。プロコフィエフといえば「束の間の幻影」という曲集があった。このアルバムのように、短いためいきのような曲が詰まった曲集だった。

 

紆余曲折を経て「喜びのテーマ」で美しく完結する。なんとなく「これでよかったんだ」と思う。彼は今、幸せなんだろう。作曲した曲も評価された。「アフラック」のCMで「あしたのワルツ」も使われた。ライブハウスツアーも大入り。

 

でもそれだけではない、人生に対する傍観も感じられた。そんな一枚だった。

 

ここで締めようと思ったのだが

このTweetをしたところ、沢山の人にいいねやリツイート、そして「H ZETT M」の公式アカウントにもリツイートされた。このアカウントは彼が運営しているのだろうか?

まあ、それはどうでもいいです。それよりも「ヒンデミットのルードゥス・トナリス」てなんだお前って感じたと思います。

これは「ヒンデミット」というドイツの作曲家の作った「ルードゥス・トナリス」という曲名です。

www.youtube.com

Ludus tonalis とは「音の遊び」その名の通り、音で遊んで、楽しんでいるかのように聴こえる音楽だと僕は思っていましたが、ヒンデミットはドイツの作曲家。堅牢に構築された建築物のような音楽を作る人、と言われています。

しかし、この「ルードゥス・トナリス」は、理論的にはそうでありながらも、どこか解放されたかのようなただただ美しい曲に聴こえます。この動画は1曲めで実際には全25曲あります。壮大です。

だけども、「共鳴する音楽」に、通じるものがあると感じました。共鳴する音楽に共鳴したのです。

 

僕はいつかH ZETT Mさんのピアノ独演会を観に行きたい。そしてその会場が「サントリー・ホール」だったいいのに、だなんて思っています。

クラシックファンで、彼の音楽を認めている人という人に会ったことがありませんが、きっとわかってくれると思う!

ああ素晴らしいH ZETT Mさま。今日は「新宿は豪雨」です。どうかみなさん足元に気おつけて。僕が長野ですが。