さわやかトラウマ日記

さわやかな音楽ブログです from 2004


さわやかでまえむきな人間になりたい男が
好きな「文化」を語る。
そんなブログです。from 2004yaer。

ファンレター&苦情はこちら pinkcoatpiter@gmail.com



【日記】さわやかとらうま「日記」なのだから日記普通に書かせて孤独なのですから…

今日は、朝5時に起きました。仕事です。仕事は6時からです。昨夜は眠りにちゃんとつくことができました。あれだけ不眠気味だったのが嘘のようです。そして寝起きも良いです。起きて、シャワーを浴びました。恥ずかしいのですが、おそらく2日ぶりだったかもしれないです。そうなのです。人と全く会う必要がないということから、毎日のシャワーの必要性もないのです。湯船に湯を張るということは、元からあまりしませんでした。おかしいですよね。僕は温泉や銭湯が好きなのに。

それには理由があります。家の風呂は、お湯を張るだけのもの。再度湧かすものなどないのです。なので、すぐに温くなる。それに比べて、銭湯温泉はずっと暖かいのです。そのうちにぬるくなるのを感じつつ、風呂に入る馬鹿馬鹿しさを感じながら狭いくそ狭い湯船につかるなんて、嗚呼なんという無駄な時間なんだろうと。

そんなこんなで、仕事に入りました。きわめてリッラクスした、「リラックス」という言葉を頭に思い浮かべると「ラリックス」とどうしても思いたくなってしまうのですが、それは僕だけなのでしょうか。「わたしはウルトララリックス」なんて思ってみたりするのです。思うだけならば良いのかもしれない、実際口にしたら、周りの人が引く、なんてことは自分の人生では、あまりなかったように思うのです。勘違いかもしれません。「ラリックスできるなああ」なんて口にしてもスルーか「なにそれ」くらいで済むと思うのですが、実際のところ、それを確認する術が、ないのです!!

LINE、最近は「月曜から夜ふかし」の多田さん(本名は大田)の公式アカウントのブログ更新通知しか使いみちがないのですが、そこで「リラックスをラリックスとかいっちゃうんだけどどうかな(>_<)」なんてことを誰かに送ってみたいのですが、そんなことをデキる人がラインにはおりません!なんということなんだろう。ツイッターでも華麗に無反応だと思います。ちくしょうが!!全員死刑!!

こんな感じなのです。しかし私は今日、お昼の1時間をはさみ午後も短時間の仕事でした。それもまあまあ自尊心保つことができる感じで終わらせることができました。よかったです。よかった。

ああ、今週先週と、勤務が続いたような気がします。実際には短時間の日もあったのですが自分比で、続いた、ということです。しかし!わ私は都内にてふつー普通のサラリーマンのような生活、月から金7.5時間程度の勤務をしていたのです。だから、今は相当ラクなのです。それはいいのですが、今後が不安で不安で仕方がありません。

在宅勤務、しかもひとりぐらし在宅勤務は、「リラックス」が「ラリックス」になるほどのものだということをお教えしましょう。ちっと「ああやだな」と思う時には、「ああああああ」と叫ぶのです!だって、家で一人なんですもん。会社のオフィスとは違うのです。咎める人などいないのです。そして「あああ〜♪うつだ〜♪らりろれろー」なんて歌ったりもします。「大きな声を出す」ということは、ラリックスへの効果があるということです。みなさんもご存知だと思います。

 

さらに、在宅勤務は運動不足になりがちです。通勤がないということだけで、オフィス勤務であれば、それほど運動はないのですが…。しかしやはり運動は不足する。そこで私はある利点を思いつき、それを活用することにしたのです。それは今の家はアパートメントの1階なのです。そこでできること、それは、足をひたすらドタドタ床にうちつけるのです!走るように!ドタドタ!はあはあ、結構疲れるのですが、すぐ辞めたらだめ!なんて頑張ったりするのです。でも、途切れそうな時は、そうです。「あああああ」と叫ぶのです。

阿鼻叫喚のように思われるかもしれません。でも誰もみていないのです。苦情もおそらくきません。古いアパートですが、硬い鉄筋で両隣がない設計(1階につき2室)なので、苦情はないと思います。

 

どうしよう、日記ではなくなってしまいました。

でも、安心してくださいね。仕事が終わったら、特に何もないのです。あったといえば、内的な変化とそれに浸ることだけです。本当は、その事をここに記載するべきなのかもしれませんが、他人の内的な変化など、みなさま知りたくはないでしょう?

しかし、せっかくだから内的な変化についてもだだ漏れさせてしまいます、それは

「ひたすら欧羅巴の妄想に浸る」「日本欧羅巴化計画を遂行するための計画を起てる」

「日本欧羅巴化計画実現に向けてのマイルストーンの設置」「精神的充足≒内面欧羅巴化」そして「ヨーロピアン・ロマン・レーベルの復興」

などです。

 

日記のひとつもかけないのに、日本欧羅巴化計画なんて出来るのかこの人は、だなんて、思われるかもしれません。

しかし私は本気なのです。妄想することを、すっかり忘れていました。が、取り戻せたということ、ここで締めます。最後にわたくしは本気です。日本欧羅巴計画の遂行を!!

 

【ライブレポート】「アメージング!」ヘナート・ブラス Renato Braz 来日公演 at Book cafe NABO 上田市

今日、僕が住んでいる街で「ヘナート・ブラス」の来日公演がありました。

www.facebook.com

たまに行く、ブックカフェ「NABO」というところの開催でした。

正直にいうと、誰かはわかりませんでした。しかし、ブラジルのアーティストの来日公演だということがわかり、行こうかなと興味を持ちました。

Renato Braz (ヘナート・ブラス)
1968年サンパウロ生まれ。1996年のデビュー・アルバムに収録された曲"Anabela"の大ヒットでその美しい歌声が注目を浴びる。2002年のビザ・ブラジル音楽賞の受賞によって一流アーティストの仲間入りをし、音楽界にその名を広く知られるようになる。2004年にソプラノサックス奏者ポール・ウィンターと共演してアメリカでのデビューを果たし、2008年のポール・ウィンター東京公演にもゲスト出演。2017年にはミルトン・ナシメント、シコ・ブアルキ、ミウーシャといった重鎮をゲストに迎えたアルバムを完成させ、名実共にブラジル・ポピュラー音楽の第一人者となる。
▼アルバム"Saudade"より「Anabela」
https://youtu.be/2iD2EC1wApg
 
▼アルバム"Saudade"より「Beatriz」
https://youtu.be/QYPZ8lbD3vI

会場のブックカフェ「NABO」はとても素晴らしいところです。

www.nabo.jp

このど田舎上田市において、ありえないくらいのオシャレな空間があるということも素晴らしいですが、もっと素晴らしいのがここは基本的に古本屋なのですが、ただ古本を置いているわけではありません。店員さん、または、経営元の古本流通大手の「バリューブックス」によるセレクションによる本が、たくさん並んでいるのです。そしてその本も廉価なものばかり。某ブックオフよりも、確実に良い本ばかりがおいてあります。僕もつげ義春の「貧困旅行記」という本をここで買いました。ハードカバーでお値段300円税込みでした。

 

ということから、ここの場所への信頼もあり、事前予約ができたので、予約をしました。

 

今日の上田市はほんとうに寒いです。今から「ブラジルから来たアーティスト」がここでライブをするなんて信じられないくらいに寒いです。しかし、これでもまだ今日はマシな方なのかもしれない。僕は自動車の免許を持っていません。移動は全て自転車です。この季節は本当につらいのです。でもその辛いのにも少しづつ慣れてしまった、というより幼いころはもっと過酷なところで生活をしてたのだから、其れを思い出してしまったのかも、なんて考えながら、会場につきました。

https://www.instagram.com/p/Bb1psB6DoFU/

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会場には沢山の車が止まっていました。この素敵な入り口の真横に自転車置場があるのですが、そこに入るのが大変でした。こんな事は初めてでした。

https://www.instagram.com/p/Bb1pvHiDG4T/

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ここは古民家を利用した場所で、吹き抜けで2階の天井が見えます。この写真だけを見ると、ガラガラのようにみえるかもしれませんが、まだ開演前で、実際には壁側の席は埋まっていて、細長い入り口がわの飲み物を提供するカウンター付近には沢山の人がいました。

ここでは、おいしいブレッドも売っていて、日によっては朝食のサービスもあるようです。それはこの前に行った「上田映劇」の「映劇ごはん」でおいしい鶏のお粥を提供していた方です。行ってみようかな。水曜日の朝はたぶんいつも休みだから…。

 

会場には、もうヘナート・ブラスは当然いました。大柄で長髪ですが、とても優しそうな人です。ニコニコしていて。僕が席に着くと、後ろにお母さんがだっこをしている赤ちゃんがいました。僕が「わあ赤ちゃんだ」と思い、見つめていると、赤ちゃんが笑ってくれてわあ嬉しいなんて思っていたら、大きなヘナート氏もやってきて、赤ちゃんと戯れはじめました。赤ちゃんは引き続き嬉しそうです。

今日は、良い日になりそうだと思いました。

 

そして、ライブが始まりました。ギターを構えて席に座る。ギターの弾き語りです。

「弾き語り」というジャンルの音楽は、実は、僕はかなり見下してしまっているジャンルです。「語り」が主役ではない、語っていないお仕着せの歌に、「弾き」が弱い、形通りの基本的なコード使うばかりの、楽器ができない人しかなやらない、退屈な音楽だと思います。

しかし、「ボサノヴァ」または「ブラジル音楽」はそういう音楽ではないということも、わかっていました。

はじまってすぐにわかったのです。これは素晴らしい音楽だと。

ヘナート氏のボーカルは、父性に溢れた、慈愛に満ちたものです。広くはない会場でも、それ以上にそれが響きわたってしまう。そして、ギターはもちろん、もう聞き飽きた「ギターの弾き語り」のようなものではありません。ボサノヴァ、ブラジル音楽、ラテン音楽では当然の、高度なコード進行、Aメジャーでも、ラドミだけではない、真ん中を引いて、その上の音を足したりするのです。ボーカルは、それを邪魔しない、どころか、ボーカルを含めての和音構成がされている、と感じたのです。

 

そんな理屈を超越したもの、そんな音楽体験ができたことが僕は嬉しくて、終始幸せな気分に浸れました。中には、ラテン音楽において薄いうっすい知識しかない自分でも知っている曲が混ぜられていました。編成は違っても、そのような曲を生で聞く事ができて嬉しかったのです。

音楽ってすばらしいな、と改めて思いました。地球の裏に住んでいる人の、生の音楽がこんなど田舎で聴けるということ、今日はきてよかった、と本気で思いました。

と、同時に、このような音楽に触れ合える機会が沢山あった場所にいた自分、そこに今、いない自分にも気づいてしまったのも事実です。機会損失、という言葉はふさわしくないかもしれませんが、あきらかに、機会を損失してしまっていた、と気づいたのです。

 

ヘナート氏がギターを外して、小型のタンバリンを持ち、タンバリンで指でリズムを刻んで、歌を歌った時もありました。それが素晴らしかったのです。サンバの曲でした。サンバを指で刻んで、歌も譜割りが細かいサンバ調です。ギターがなくても、ラテン音楽は成立するんだ、ということを知りました。

 

また、サービスで日本の曲「ふるさと」や「子守唄」を披露もしてくれました。しかしやはり普通のコードではなく、そこはもう天然でそうなっているのかな、と思いました。この曲の前には「子供のために歌う」ということで、会場にいたお子さん2人そして先程の赤ちゃんを指をさしたり、していました。普通にいいなと思いました。ほんとうに彼は良い人なんだ、ということ。それが素直に受け止められました。

 

そして、3回のアンコール!に応えてくれて終演しました。帰り際、ヘナート氏が出口付近にいたので、自分から手を差し出し、握手をしました。

「あAmazing!」と僕はいい、彼は「Thank you」と笑顔で返してくれました。

 

くそ寒い暗黒の上田市を自転車でかけぬけながら、僕は思いました。

「今日は素晴らしかった!」「音楽ってすばらしい!」「ヘナートさんにアメージングって言えてよかったなあ」「ブラジル音楽もっとべんきょうしたいーー」

 

そんな、素直な感動をして、良いのでしょうか?良いのです。良かったから。

ああ、良かったです。Amazing!

稲垣吾郎オフィシャルブログ、Twitterついに!本気を出してくれましたかっこなみだ!

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遂に始まった稲垣吾郎のオフィシャルブログとツイッターでしたが…

正直、肩透かしの印象でした。無理もありません。始まったのは、「72時間テレビ」の開始と同時でしたので。

短文が基本のTwitterは仕方ないとして、ブログも、ああやはりという感じの写真+短文のみで、「嗚呼稲垣吾郎さま」と思ってしまいました。

しかし、ある日突然の、約束されていた筈の衝撃がやってきた、しかもそれはTwitterからでした!

あら、お二人また仲良くされてたのね。。
イタリアの巨匠ミケランジェリの奏でるショパンのワルツと今現在の夕日があまりにぴったりで物思いにふけていました(°▽°)嗚呼なんて美しく暖かな夕日!
クルちゃんお洋服いらないですね(^^)

— 稲垣 吾郎 (@ingkgrofficial) 2017年11月9日

 いいイタリアの巨匠!!ミケンランジェリ!!!ショパン!!しかもワルツ!!

しかも!夕日!にぴったり!!物思い!!顔文字(°▽°)!!嗚呼!!!!美しくくあたたかいい!!クルちゃん!犬さんの名前!!!「お」洋服!!!!!

私は冷静を忘れてこんなツイートをしてしまいました

僕も今、稲垣吾郎と同じくイタリアの巨匠ミケランジェリが奏でるショパンのワルツを聴いてます #稲垣吾郎https://t.co/mwcfTZyeA4

— まえむきさん🇫🇷 (@sawayakamaemuki) 2017年11月9日

 あせってハッシュタグ間違い!!!恥ずかしい!けど…RTお気に入りたくさん><

ありがとうございます!!

「イタリアの巨匠ミケンランジェリの弾くショパンのワルツ」なんていう言葉が出て来るなんて、全く予想もしていたようないた予想以上のポテンシャル、何のポテンシャルかはわかりませんが、それを感じた感じてしまったのです。

僕の周りの身近な男性には「イタリアの巨匠ミケンランジェリが弾くショパンのワルツ」が好きな人なんて、いないのです。…僕は「イタリアの巨匠ミケンランジェリが弾くショパンのワルツ」が好きで、さらにショパンのバラード、ピアノソナタ、ピアノコンチェルト、ポロネーズドビュッシー前奏曲、などなど!が好きなのです。

ちなみに「ショパンのワルツ」は何曲もあるのです。僕がリンクを貼った「ミケンランジェリのショパンソナタ」は作品番号一番で、たまたまそれにしたのですが、ちょっとマイナーな感じで、稲垣吾郎っぽいのです。稲垣吾郎は著書「馬耳東風」の中で「マイナーコードで伝えたい」という章があり、「僕はメジャーコードよりもマイナー・コードが好きだ…」みたいなことを書いていたのです。確かに有名な「子犬のワルツ」よりは、うつな感じのマイナー短調なワルツの方が合うかなと・・。

 

それにしても、どうしたらいいのでしょう。か彼と友達になれるはずだなんて…。考えてしまったのです。そのような方が同年代には、身近にはいないのです。同年代でなくても、いないかもしれない><なんて…。

そんな人が国民的なグループのメンバーであった、ということは凄いことだと思うのです。よく彼も好きな「ガンダム」などの繋がりなどはあるとは思うのですが、「イタリアの巨匠ミケンランジェリが弾くショパンのワルツ」が好きな人なんて、あまり有名人でも見受けられません。そう思うのです。

 

そして、2番めの衝撃はこれでした。

ameblo.jp

「72時間テレビ」の再放送を見た、彼らがその映像を見るのは初めてだったのかもしれないです。生放送で自分もみていたからです。そんな事の説明もないのに、この文章からは、出だしから、そのような気持ちが伝わってきます。

なんて、浸っていたらこれがきました

僕なんて変わり者でナルシストで…
接し難かっただろうな。。

 自分のことをわかりすぎてしまう、ということもわからせてくれてしまった。贅沢すぎます。「変わり者でナルシスト」という自覚がある。ということは、もう怖いものはないと思うのです。そして、みんなが思っていたことであるのかもしれないです。

 

そして後の文章、端的で無駄がないながらも、その場にいた人にしかわからない空気が伝わってきました。

この駄ブログのように、つらつら長く書かなくても、言いたいことが伝わった、ように感じさせることは、凄い才能だと思うのです。

そして、この上のブログのへのリンクの中に赤文字で***users というものがありますが、それはこの「はてな」のサービスで「はてなブックマーク」というサービスがあり、そこにブックマークをした人の数なのです。

そしてそこにはコメントをつけることもできます。

b.hatena.ne.jp

そこにはこんなコメントがありました
 
 稲垣吾郎っていい文章書く人なんだね。知らなかった。
 たいして興味なかったのになんでこんなにグッとくるのかと思ったら俺も同世代で20年会ってない友人がいるからかもしれない 
夜空ノムコウが聴こえてくる 

ほら〜ゴローちゃんのテキストはアメブロよりはてな向きだよ〜。はてなに来いよ〜。  

 見ておわかりのとおり、この方達は「SMAPファン」ではありません。一般の方です。つまり、僕と同じなのです。自分と近い人たちも、同じような感想をもっていたのです!

とくに「稲垣吾郎Amebaよりはてな向き」には狂おしく同意いたします。でももう無理ですね…。アハハ仕方ないです。

そしてこんな声もありました

 色々あるだろうけど、何年後かに6人揃ったNAKAMAが見たいと多くの人は思ってるだろうな。 

 そうなのかもしれないですね。6人で、会えたらいいなと思うのです。会って、そこをネットで生放送で…なんて無理だろうなあ、会うのはいつでもできると思います。

これからもいろいろありそうで、楽しみです。おわり!

筋肉少女帯「月光蟲」リリースから本日で17年記念!補足濃厚ぎみに再度レビューします!

 

月光蟲

月光蟲

 

 今日、好きなツイッタラー「サブカルおばさん」さん(宝島とフールズメイト信者)のツイートにて、本日11月21日が、筋肉少女帯のアルバム「月光蟲」がリリースされた日付だということを知りました。

 わああ素敵なお知らせ!と思い、再度「月光蟲」を聴いてみたくなり聴きました。そこでまた盛り上がってきて、再度「月光蟲」について書きたくなってしまいました。

以前にも書いたのですが…

maemuki.hatenablog.com

この記事は今でいう「まとめ」のようなものです。なんせ量が多いので、その分薄くなってしまった。それが自分にとっては、ちょっと不満でした。

もっともっと、言いたいことがあるのです。だから、個別に記事を作成して、この記事のリンクを編集ではりつけてやろう!と考えていたので実行することにしました。

1.風車男ルリヲ

petitlyrics.com

 

実際のところ「風車男」というものが実在がするのか、それとも他の創作物からの引用なのだろうか。この曲の歌詞にも出てくる「パノラマ島」のように。まーた江戸川乱歩からの引用なのではないか。そして「ルリヲ」ルリオではなくルリヲという「オ」を「ヲ」とするサブカル感のように。これも誰かの真似模倣引用なのではないか。と考えてみた。実際すなおに「風車男」で検索をしてみた。しかし、出てくるのは「ルリヲ」が紐づくものばかり。そして「風車男 江戸川乱歩」でも検索をしてみた。しかしやはり「風車男ルリヲ」に紐づくものばかり。

と、いうことは、もしかしたら「風車男ルリヲ」はこの世に実在の可能性がある、と私が考えたことも責められないし、誰も否定はできないのだろう。そうだ!そうなんだ。実際にこの曲を初めて聴いた時、初心(うぶ)な中学生だった頃の感動と心揺さぶられる激しい共感、其れは「中2病」または「厨2」という愚かしいカテゴライズ・ワードが出てくる前のことだったが、やはりそうなのかもそうだったなのかもしれない。

 が、「風車男ルリヲ」を聴いた時と「元祖高木ブー伝説」の存在をしった時、そして「踊るダメ人間」のシングルCDを買った時、同じような衝撃と心揺さぶられる激しい共感を覚えてしまったことを思いだしてしまったことも事実だ。

なんでこんなことになってしまったのか。そうです。ルリヲが全部悪いんだ、と「楽しかったあの頃」に今の自分が戻れないのも、「待ち人がついに現れない」のも、全て煌々と月の照るホスピタルの上で、観覧車みたいな巨大な風車を回してるルリヲがいるからなんだ!!と気づいたのです。

そうだ、ルリヲが全部悪い。今の人生に満足が行っていないのも、全部ルリヲのせい。だから、殺しにいかなくてはいけないんだ。ルリヲを殺しにいかなくちゃ。風車を止めにいかなくちゃ。いますぐ!いますぐ!

そのような性急さを駆り立てる残酷すぎるほどに重く速いメタルサウンド。そして大槻ケンヂの、激しく壊れている咆哮。ルリヲの存在は、優雅に否定されてしまう。ルリヲには首がないんだ。そんなこと言い最期には「ルリヲーー」と断末魔に蹴されたような声で、終わる。

しかしルリヲは存在する。それは今の自分がそれを表しているのかもしれない。だから殺さなくてはいけない。おわかりだろうか。この曲は「風車男ルリヲを殺す」ということに希望を見出して行くことに、希望を見出そうとする、ポジティブシンキングの曲だということを!僕の勘違いなのかもしれない。しかし、勘違いがもう何十年も続いているという事実。中学生から、中年とよばれてしまうかもしれない、痛い「サブカルおじさん」になっても、ルリヲの殺害の必要性について本気で考えている。そうです。大槻ケンヂが全て悪い。いや、自分が悪いのです。踊る!ダメ人間!!

2 少年、グリグリメガネを拾う

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勿論の事において「グリグリメガネ」ってなんだろうとGoogle検索をしてみたのです。それはもう純粋な気持ちでした。長年「グリグリメガネってなんだろう」とうっすらと考えていました。Technologyが進化して、「グリグリメガネとは何か」ということも、簡単にわかるようになってしまった。それでも自分はしなかった。「グリグリメガネとは何か」について、知りたくはなかった。しかし、「グリグリメガネは実在しない」と云うことを本日確認してしまった。長年に渡る「グリグリメガネの幻想」が今日解けてしまった。

しかし、私がこの曲の初聞きの時とは違い、自分は「メガネやろう」になってしまったことに気づいてしまった。あの頃の視力は両目1.5。今は0.1もないのかもしれない。とりあえずメガネがなければ生きてはいけない。しかし世間では「メガネやろうはくそださいオタク八郎」という当時の認識から、いつもまにか「のびたてきなまるめがねがオサレメガネだんしはトレンド」という世の中になってしまった!なんということなんだろう。

メガネをかけ始めてから、この曲のように、いろいろな見えなかったものが見えるようになってしまったことにも、気づいてしまった。ネコの中には薔薇がいっぱいだし老人の中には釘。サラリーマン、彼の中には鼠子公!そしてふと鏡を見る。そこに移ったのは、少年ではないメガネをかけた自分。グリグリメガネ?グリグリメガネをかけているのだろうかあなた、僕は!?問いかける。問いかける。

少年、少年、グーリグリメガネひ~ろう~という言葉そのままのメロディが印象的だが、この曲は大槻ケンヂ作曲とクレジットになっている。彼が何の楽器もできず音楽的な素養がないということは、エッセイ等にて散々に本人が話している。なので、「こういう感じかな〜たらラーたららーたらりらららららー うーんそうだねえ歌詞はしょうねーんしょうねーんぐーりぐーりめがねひーろうーなんてどうでショウのほほん」なんて言って、それを無言で他の一流ミュージシャンといっても良い技量の彼らが、わざわざ曲に起こして、こうしてアレンジもされて、レコーディングもおこない、トイズ・ファクトリーという一流のレコード会社からリリースされた。

ああ、なんということなんだろう。架空の「グリグリメガネ」から見ていた景色より、現実のZoffで買った安いメガネが見てきた、この現実の方が、奇々怪界であるということ。信じられません。グリグリメガネはどこで拾ったら良いのでしょうか。知っているひとがおられましたらメールをくださいませ。

3 デコイとクレーター

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 デコイとは囮のこと。おとり。「狩りのためのデコイ」と、わかりやすいものです。しかしそのデコイとクレーターの曲なのです。こういうもの、こういう曲に対して、いちいち意味や正解を問うとこはよくない、と思い、ずっと考えてはきませんでした。囮とクレーターの関係性については長年においては、どうでもよいけどなんとなくの引っ掛かりを得ていたことは事実です。

しかし、それがくつがえされた事態がありましたので、自慢ついでに披露しますね。

映画監督デヴィッド・リンチ氏を皆さんご存知でしょう。彼が監督をした映画「マルホランド・ドライブ」という映画がありました。2001年公開のものです。僕はその映画の意味が何回観てもさっぱりわからなくて、でもわからないことはよくないのかな?でもそれでもいいのかな?これまでもわけのわからない筋肉少女帯の曲などを聴いてきたのだから。「日本を印度にしてしまえ」「ラッシャー木村はえらい!」「フェティシストの兄はいくじなし!」「リュックサックに子猫をつめて」など、そのように理解はできなくても「正解なんてない、なくてもいいんだ」と思っていたのです。しかし、ネット上では「正解は何か」という平和すぎる議論が繰り広げられていたのは、確かでした。

ちな大槻ケンヂ氏も尊敬をする漫画家・蛭子能収氏におけるこの映画の解釈は「リンチさんは、撮ってる間にわけわからなくなったのかなあ〜」といったものでした。さすが!サブカル青林堂

そんな時に「マルホランド・ドライブ」の日本公式HPにて「デヴィッド・リンチ監督に聞いたみたい質問を募集します☆」みたいな告知がでていました。そして私は素朴な疑問から、投稿したのです。彼、デヴィッド・リンチに対し「この映画の正解を巡って、日本では議論になっていますが、この映画に正解はあるのですか??」と送りました。そうするとそれが採用されたのです。デヴィッド・リンチのこたえは"(正解は)ある。”とだけでしたが、正解はあったのです。以上自慢です。リンチに近づいたのかも…。

筋少に話戻しますね。この「デコイとクレーター」においても意味があり、正解もある、この曲だけではない!すべてにおいて、正解があるかもしれないなんて。そんなことを考えてしまいました。そんなことを考えさせてくれるような、心地よいが心地悪くもある、そんな夜の音楽だと思います。

4 サボテンとバントライン 

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この曲に対して、自分は大きな事を発見してしまいました。それは、この曲のテーマ、大きなテーマが…「映画」だということです。そんなことは当たり前なのかもしれないけれども。CMソングで流れていたとか、大槻ケンヂが作曲をしたとか、そんなことなどどうでも良いくらいなのです。

この曲は一人の少年とネコ(名前はバントライン)とサボテン(サボテンマークのレポート用紙に”僕はこの世を憎む”と書いてあった)が映画館に爆弾をしかけて、爆死する、映画館もろともふっとぶという曲なのです。そのような下りがいかにも映画的だ、なんてことは言いません。

少年は爆弾をしかけ、一度は成功する。なぜ?バントライン(ネコ)とサボテン(僕はこの世を憎む)と映画をみることだけが楽しみだったのに。そして更に犯行をしかけます。上映中の映画は「真夜中のカーボーイ」しかし、映画に見とれていた少年は、ぶっ飛んだのです。

サボテンの光とともに、息絶えた生命。サボテン(僕はこの世を憎む)も爆破したのかはわかりませんが、バントライン(ネコ)は死んでしまいました!そして少年も。

しかし、死んでいないものがあります。それが、「映画」なのです。「真夜中のカーボーイ」にかぎらず、製作者、俳優、観客は死んでも、作品だけは残る!ということを感じました。

音楽的なこともあります。この前においてわたくしは「すばらしき映画音楽たち」という映画を鑑賞しました。その映画は映画における映画音楽の歴史と使われた方を説明した素晴らしい映画でしたが、その映画で語られたことのひとつに「映画音楽にもっともふさわしい音は、オーケストラ、そしてストリングス」という解説がありました。「スターウォーズ」の音楽が例として使われていました。とても納得しました。

筋肉少女帯サウンドにおいて、オーケストラやストリングスが採用されていたことは、みなさんご承知でしょう。そのはじまりはオリコン8位の大ヒット曲「元祖高木ブー伝説」だったからかもしれません。そしてこの曲「サボテンとバントライン」にも入っています。

 

間奏の、4分音符高音の弦のトゥッティでレガートにながれる壮大な場面!ほんとうに映画風景が浮かぶようです!ああ、こんなに素晴らしいだなんて。ほんとうに、大槻ケンヂハナモゲラで作った曲を、ここまでオオゲサにアレンジしたアレンジャーとバンドメンバーの苦労に涙が出そうです!

しかし、そもそもこの完璧なストーリーの歌詞をつくりだしたは、我らがきょうそ!大槻ケンヂ様なのです!!ああ崇めましょう崇めあがああ!!おおつきさまーー!

5 夜歩くプラネタリウム人間 

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でました夜歩くプラネタリウム人間。夜歩く、プラネタリウム人間。おおよそ、筋肉少女帯に出会わなければ「夜歩くプラネタリウム人間」という言葉には巡り合わなかったかもしれない。しれないではない、巡り合わなかった。のです。しかし、そんな人生でない方がよかったのかもしれない。でもいいのです。俗なやつらには、見えないのです。夜歩くプラネタリウム人間は。山の上でも魚がおよぐーーという箇所がありますが、僕は実際に山の上に当時住んでいました>><><><その時は夜空を見上げて「魚が泳いでいないかな」「ここは山の上だけど水族館だあ」なんておもって いま せん!!そんなことはありません!山の上は夏も秋も春も寒くて暗くて道も舗装していないから!外に出られないのです!!!ほんとうに夜って暗いんですよ!山の上では。

それにしてもこの曲の「普通にかっこよさ」といったら、説明ができませんね。女性ボーカルとデュエット。「この世で一番狂っているかもしれないデュエットソング」なのかもしれません。交互に「水族館!」「人間!」「プラネタリウム!」と歌うデュエットソングなんてこの世にない、、ありましたねこの曲です。このような「異世界感」が筋少たるものであると示してくれる名曲です。しかしこの曲を名曲だと宣う御方がは果たしておられるのでしょうか??わかりません…わからない!

6 僕の宗教へようこそ(Welcome to my religion) 

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来ましたね!「宗教ソング」!!こんなに世に求められていない曲があるのでしょうか?いや、必要でした。リリース後しばらくたってから「宗教」は日本にとって、大きなものになってしまったことは、みなさんもわかると思います。いくら子供でも知っているかもしれないしれない事態。「詩人オウムの世界」の現実化が図られてしまった、そしてこの曲もそうでした「しゅうきょう!」ズンズンズンズン「しゅうきょう!!」ズンズン!という繰り返しのアジテーションに、思わず「入信します!」「ようこそ」となってしまう、なんてことももちろんありません。しかし自分は実は「宗教好き」「宗教ウォッチング好き」でした。このころ中学生のころに開眼していたのか、なんて覚えていません。が、この曲「僕の宗教へようこそ」を聞いていたことは、確かなのです!ああ、そうです。やはり大槻ケンヂ教祖によっての擦り込みがあったのです。おそろしいです。この曲はカラオケなどには入っているのでしょうか。歌いたいです。しゅうきょう!しゅうきょう!!そして「元祖高木ブー伝説」で締めるのです。あああ

7 悲しきダメ人間

ハワイアンムードでプチうつムード、そんな悲しきダメ人間です。「ダメ人間」という筋少を象徴するようなワードがここで初登場なのでしょう。「ダメ人間」って、筋少が流行らせたのかな?みたいなことを感じることもありました。ドラマで「私は!ダメ人間だから!」みたいなセリフがあったりして「よしキター」なんておもっていたり。

悲しくなってきました。悲しきダメ人間。作曲は脱退して今もドラマーの太田さんです。太田さん良い曲作りますね。短いけど!!

8 少女の王国

現実にはありえないこと。少女の王国。現実にはありえること。この地球を燃やすこと。いや、地球は燃えない。でも月に行けばできるのかもしれない。ほら、あの地球を燃やしておくれ、この言葉に僕は感動をしてしまったような記憶があります。曖昧なのは、「そんな自分に感動していた」なのかもしれません。でもそれの何がいけないのでしょうか。この「少女の王国」は全てを諦めて、少女の王国を作り、地球を燃やしてしまおうという、現実逃避の曲なのかもしれません。現実逃避だとしても、それが悪いということはないのです。「私は、月で、少女たちと生きたい」という言うことすら、憚られてしまうこの世の中です「オーケン楽曲で少女趣味告白」なんて見出しでニュースになってしまうかもしれない「オーケン児童ポルノ所持か」なんて見出しもあるかもしれません。こんな世の中です。もうこんな曲をメジャーから出せないのかもしれない。そんなことはありません、この曲はオブラートに包まれています。橘高氏の類まれなギターによるシュガーコーティングによって、「少女の王国」にふさわしい曲になっているのです。だからだれも気づかないのです。俗なやつらにはきずかれないのです。ああよかったです。私は月で、オーケンと…暮らしたくはありません。中野で見かけてみたいです。

9 イワンのばか

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ロシアの子供向けの文学作品をモチーフした曲。実は、小学生の頃に図書館にて「イワンのばか」を読んだ記憶があります。どんな話だったかはわかりませんが「ああ、イワンのばか」ということは分かった記憶があります。そうしたら、数年後に筋肉少女帯のこの曲を聞いた。しかし「三年殺し」とか「ロシアのサンボの裏技」とかそのような語句は出てなかったと記憶しております。そうです。そんな記述はないのです。おそらくは大槻ケンヂの創作なのだろうと思います。「ロシアのサンボ」というものは実在し、「三年殺し」という概念は存在するのです。しかしそれが「イワンのばか」にどうやってつながるのか、というと、とてもどうでも良いと考えることが先だってしまうのです。歌詞を読むと、いかにイワンが愚かしい阿呆であるということ、子供たちをツンドラの大地に埋めてしまった。人殺しです。人殺しは仕方がないのです。創作の世界は、です。そのようなロマンス、退廃的なもの、この曲にはピッタリバッチリだと考えます。

本当に言いたいことは、この「イワンのばか」は名曲であり、「ツンドラ」の景色を想像させるような叙情的な歌詞に、それにふさわしいメロディ、珍しく大槻氏のヴォーカルも調子が良い、ような気がします。しかし、最後最期の「イワンの ばかあ!」で全てが破壊されてしまうのです。それはいつもそうなのです。この曲は、昔から「ナゴムギャル」には不評だったのかもしれないです。橘高メタル路線全体がそうなかもしれない。しかし橘高氏の極端さと大槻氏の極端さの相性は、けっこういいと思うのです。けっこういいのです。けっこういいひとだったから、入ってあげてもよかった(よかった)なのです。とろろの脳髄なのです。ああ、わかりません、とりあえずイワンのばかあ!です。

10 少女王国の崩壊

幻想はいつか崩壊してしまう。崩壊を望まなくても、アルバムの最期にて、それを表現してしまう。そこに言葉は必要がないと思ったのでしょう。この曲はインストゥルメンタルです。歌がない。大槻氏の声がないのでききやすいなんて、思います。思ってしまうのです。しかし、さみしいのです。ああ、気づきました。大槻ケンヂこそ、「王国」であり、彼がいない曲は、崩壊を意味するのだと。

そんなことはないのかもしれない。ないのかもしれないのでしょう。でも良いのです。今だから、また言いたい。病んでる人はみんな聴け!君の居場所はここにある!と。

 

おわりです

【アルバムレビュー】中森明菜「明菜」 悲しい声、そして終わらない悲しみ

 

明菜(通常盤)

明菜(通常盤)

 

 ひと、他人の気持ちなんて、わからない。

他人が何を考えて、どう思っているのかなんて、自分にはわからない。本当のことは、他人にはわからないものだと思うのです。

たとえ、傍から見てそれがそうであるんだろうと推測して、そうなんだろうと思っても、それはあくまで推測なだけ。ほんとうにことかどうなのかは、他人には絶対にわからないと思うのです。

思うのです。ではなく、実際にそれが真実だと思うのです。ほんとうに笑っていても、ほんとうに笑っているのかは、誰にもわからない。もしかして、笑っていても、心は泣いているのかもしれない。

 

中森明菜は、傍から見て、事実として傷ついてしまった人でした。きっと今でもずっとあの事を引きずっているのか、なんて思ってしまっていました。

あの事、もう何十年も前のことです。もういい加減悲しみから癒えても良い頃なのかもしれない。一般的にみたら、そうかもしれない。

 

このアルバム「明菜」を聴いて、僕は思ってしまいました。あくまで推測です。

 

彼女は、まだ悲しみの中にいるんだと。

 

もう前のこと。その間にも、いろいろあったんだろう。良いこともありました。出演したドラマは大ヒットをした。なぜかあまり振り返られないけれども。渾身の演技で、女優として大きな結果を残した。女優としても大きな結果を残すことができた。

しかし、大衆の前からはいなくなってしまった。

 

それは、彼女の消えない悲しみがあったのだろうと、僕は「推測」をしました。

あくまで推測です。

そして、もうひとつ、希望的な推測もしました。

 

このアルバム「明菜」には、これまでにはなかった、彼女が失ってしまった歌声の強さが戻ってきていると感じました。

もしかして、「消えない悲しみ」が癒えた、なんて思いません。

このアルバムの声は、力強くもありながら、泣いているのです。

 

声から、悲痛な叫びが伝わってくる。最近の作品にはなかった、細かい譜割りのメロディーライン、最近は聴かなかったような、高いキーのロングトーン

昔の曲を思わせるような、まだ傷ついてしまう前のころのような曲もあります。オリエンタルな、彼女しか表せない哀愁がここにありました。

 

これも推測ですが、彼女の悲しみはもう一生消えない、ということに気づいたのではないでしょうか。もうあの悲しみからは逃げられない。だから向き合って、このアルバムでそれを対峙する姿を、見せようとしたのではないか、と思いました。

 

これは推測です。推測であってほしい。心にできてしまった闇は、いつか消えるはず。そうであってほしいからです。でも、消えない傷だってあるでしょう。それが伝わってくるのです。儚いというには、あまりにも残酷で、そして美しいです。

 

音楽の世界でよく言われること「思いを込めて表現すれば、必ず伝わる」

僕はそんな言葉を信用していません。どんな思いが込められているかなんて、ほんとうは誰にもわからないからです。明るい歌を歌っていても心は真っ暗だったりするのではないか。さわやかな恋愛を歌っていても、不倫して孕ませたりしている。嘘ばっかりです。

このアルバムには、嘘はないと、僕は思いました。それは彼女が本物の歌手であり、アーティストであるからです。言葉だけではない、声で伝えてくれた。それは、癒えない悲しみがここにあるからです。もう何十年も。ずっとずっと。

 

彼女がほんとうにどうなのかはわかりません。が、このアルバム「明菜」には、このような推測を覚えることができてよかった、と思いました。

終わらない悲しみ、終わらない悲しい声。