今日は映画「君の名前で僕を呼んで」を観ました。この映画を観たいと思ったのは「5時に夢中」で新潮社の中瀬ゆかり氏が、この映画を強烈にすすめていたからです。ものすごい剣幕でした。これは観なくては、と思いました。しかしその放送は3月くらいの頃でした。僕は観ることができるのかは、わかりませんでしたが、新宿でやっていることを知り、観に行くことにしました。
土曜日の朝イチで観ようと思い、家を出ましたが、スマートフォンの充電がされていないことに気づき、いったん引き返しました。
結果、いろいろあって、観たのは最終上映の回になりました。最後の1席が空いていました。一番見づらい最前列の端の席でした。
今日はここに来るまでいろんなことがありました。足が辛くて街を歩くのが辛かった。転倒はしなかったけれども、歩くたびに、哀しくなってしまいました。本当は最後の回の一つ前の回に見る予定でしたが、もう売り切れでした。また明日にしたらよかったのにな。と、またドトールで休んでいました。街には人が溢れていました。土曜なので当然です。僕はずっとひとりだなあ〜と改めて思ってしまいます。もう帰りたいな。なかなか過ぎない時間をただ途方にくれて待っていました。
そんな中で、映画を観ること。僕にはよくあることでした。でも、観終わったあとに、共有をできることが、前はありました。もうそれはなくなってしまった、ということに、あらためて気づきました。映画をあまり観なくなってしまったのは、そういう理由もあったのかな、と考えて、哀しくなりました。
この映画は同性愛がテーマだということも知りました。いわゆるBL映画なのかな。と。しかしイタリアが舞台だということ。だから観ようと思いました。
僕は、小学生のころに、萩尾望都「11月のギムナジウム」を読んでいました。
同級生は皆「キン肉マン」に夢中だったころです。なぜこの本が家にあったのか、それは読書家であり、マンガも好きな母が買ったものです。しかし母はそんな僕を心配したのかまったく興味のない「キン肉マン消しゴム」を買ってくれたりしました。この本と共にあった大島弓子の「さようなら女達」を含め、後にまた読んで、果たして小学生の自分がこれをほんとうに理解できていたのか、さっぱりわかりませんでした。「11月のギムナジウム」と派生作品である「トーマの心臓」は、単なる「やおい」「BL」ではない。そんな言葉は当時なかった、というのもありますが、そういう作品ではない、という理解はできました。
この映画も、きっとそうに違いない、と思い、観ました。
それは実際にそうでした。舞台は「北イタリアのどこか」とだけ雑な説明だけがされていました。が、「北イタリアのどこか」で十分なほど、映像とそこに映し出される風景は、とてつもなく非現実であり、まったくもって羨ましいもの。主人公一家と、ここにやってくる訪問者の男性は、ユダヤ人、だということも明かされました。ユダヤ人はお金持ち。1980年代の映画なので、それも理解できました。そしてユダヤ教は同性愛は禁忌です。
主人公のエリオは痩せた(常に半裸でした)17歳の学生です。「かなり変わった子」のようでした。趣味は音楽、のようで音楽を聴いていました。そこには譜面がありました。ショパンのワルツだと思います。ただし、それを彈かずになにかを譜面に書いていました。趣味は「編曲とか作曲とか」なんてことも言っていました。
その後に、相手役の大学院生オリヴァーにバッハをアコースティックギターで弾いているところを見られて「あの曲を聴きたい」といわれ、ピアノに向かいます。引き出したのは、「バッハの曲をリスト風にアレンジしたもの」「バッハの曲をリスト風にアレンジしたものをブゾーニ風に解釈したものなんてもの」だ、と説明をしていました。僕はここで笑いました。あきらかにちょっとおかしい子です。
その後、エリオとオリヴァーは惹かれ合う、のですが、いわゆるわかりやすい愛の言葉や仕草はありません。お互いに哲学や過去の偉人たちの格言を出し、肯定と否定を繰り返すうちに、お互いを理解していく、というような流れでした。
惹かれあっていくのは、映像を通して表現されていた。台詞はあるけれども、本筋を辿っていないところが、この映画の特徴なのかな?と思っていました。
エリオの心の揺れ動きは、音楽によって、表現がされていました。
モーリス・ラヴェルの「鏡」から「海原の小舟」が引用されていました。最初の2小節だけが、サンプリングで何度も流されていました。
「海原の小舟」は、その名と通り、船が海に揺れうごき、荒波に拐われていくそのままの曲です。細かい音符で水の動き、と感情の揺れ動きも表現をしているかのような、ラヴェルらしい曲です。それが、彼の心の惑いと表しているのかな?と思いました。非常に音楽的を効果てきに利用していると感じました。
「水」は、この映画においては、重要なものです。主人公たちは、いつもプールや湖に行き、そこで泳いだり、はしゃいだり、そして本を読んだりしていました。本は重要なものとして、取り扱われていました。文学ではなく、史実や詩を重要としているようでした。知的な人たちです。豊かさが、表面だけではなく、人物らにも表れていたと感じました。
北イタリアの風景は、まったくもってほんとうに美しく、まぶしいもの。それに付きます。
いわゆる同性愛の描写もありました。ちょっと下品な表現もありましたが、それがメインではありません。
この映画でいちばん大切な場面は、「全てが終わった後」にエリオの父親が、彼に話をする場面です。ひたすらに、彼、アリオを認め、そして相手ののオリヴァーも認めていました。そしてこれから何があっても、お前を助けるよ、と全てを許容する、と話した場面です。
その後の哀しい場面も、ひたすらに説明はなく、アリオの顔がひたすらに写り、それが全てを物語っていました。
人を愛するということ、認め合い、そして否定もしあう。そういうことが、一番大事なんだ、ということが、この映画でわかりました。そうです。これはそういう映画なのです。同性愛うんぬんは、おまけです。北イタリアの風景は、おまけではない美しさだった、ということも付け加えます。そんな映画でした。
僕は、きづくと少し涙が流れていました。それは感動とか、そういうものでは、ありません。羨ましい。心の底から、彼らがうらやましかった。主人公たちだけではない、出演をしている、すべての人物と、そこに起きている全てのことが、今の自分にはないからです。
ブザーが鳴って 幕が開いても
僕を映す ドラマがいつまでも始まらない
このような歌があります。誰も知らない、僕が作った曲です。僕のドラマははじまらない。
おわり!