最近はブログを更新していなかった。それは特に何もなさすぎだからだと思う。
なんにもしていません。大したことが何もないのです。便りが無いのは良い知らせという言い伝えそのままです。何もないのです。
こんな毎日を望んでいたのです。
図らずしも望む以上のことになってしまったけど。これでいいのですいいのです。日々を無駄に消費をする、普通に生きている。これでいいのです。いいのです。
慣れです。慣れ慣れ。もう再上京をして4年が過ぎたのです。2019年、コロナヵより前に今のだらけ生活がスタートをして、もう…3年めなのです。コロナヵになったのは、自分への戒めなのかもしれない。もしコロナヵではなかったら、もっと良い感じの生活を目指していたのかも。収入を上げるために転職をしようとか、もっとアレコレアクティブに動こうとか、考えていたのかもしれない。しかし、コロナヵは家にいないといけない。なので、ずっと家にいるのです。
そう考えると、なんて自分は運がいいのだろう。世間の荒波も自分にとっては良いように動いていたのです。そうです。天地を司るおとこなのかもしれない自分は。
こんな感じで自己完結で全て済ますということに慣れてしまいました。他人に否定をされることがないということです。最悪じゃないですか。他人に否定されるなんて。それが無いのです。「そうなると甘えの構造ができあがってダメ人間になる」なんて思われるかもしれないけど、その完全体が自分なのです。そうです。自分はダメ人間の完全体なのです。完全体だったら問題なし。自分が考えているので問題なし。他人の意見に惑われされない!
他人他人他人。
これほどまでに他人を排除した生活を送っている人、社会人として他人を排除した生活を送っている人間は珍しいのでしょう。この「社会人として」というのがミソです。決して引きこもりニートのような非社会的行動人間ではないのです。
「東京で他人を排除したひとりぐらし」
これが自分の現実。なんて素晴らしいのだろう。そう思いませんか?
かつて自分は山の中で「働きたいニート」を自称し、そのような環境に置かれていました。「ああ、かつてのように渋谷ではたらくキラキラしたOL生活が夢のよう」だなんて素晴らしい過去を振り帰っていました。
「渋谷ではたらくキラキラした」というのはちょっと恥ずかしいけど><現にそうだった。しかし当時は謙遜があったので、そうは思わないようにしていました。今、そうなっている人も思わないのでしょう。日常とは謙遜の連続により成り立っているものですよね。だからつまらない毎日だったのです。自分は。
なぜ、今のようにその時の現状に酔いしれなかったのか。悔やまれます。ほんとうに。
そのような過去の反省を踏まえ、もっと現状に酔いしれていきたい。今だけしかできないこと。それは今を大切にすること。山の底辺暮らしから逆のようになってしまった自分を誇らしく思うこと。貧乏でも自分には金持ちには無い時間というボーナスがあるということを徹底的に誇らしく思うこと。
そのために、もっと自分を大切にすること。自分を毀損する他人から逃れること。誇りを忘れない。自分は貴族であり王であり、神である。
こんなことを思っていても、いつかは死ぬ。その時が来る。猫も犬もいつか死ぬ。自分も死ぬ。みんな死ぬ。これはペシミスティックではなくリアリズムである。
だから、だれか焼肉をおごってください。これに結実します。他人大好き!終わり