さわやかトラウマ日記

さわやかな音楽ブログです from 2004


さわやかでまえむきな人間になりたい男が
好きな「文化」を語る。
そんなブログです。from 2004yaer。

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このブログを18年間も続けている意味は…

fujipon.hatenablog.com

こちらの素晴らしい記事を読んで感じるものがありました。ブログのアクセスが減ったり、もう読まれなくなった、右肩下がり、、でも書かずにはいられないという、素晴らしい記事です。

自分はどうなのだろう。最近は飛ばしたレビュー記事を書いていないせいか、アクセス数は減っています。林真理子のようなエッセイを書いているつもりなのに、やはり直木賞作家には程遠いのでしょう。アクセスがありません。

でも、いいのです。このブログを続けている意味は、ありません。生きているのと同じです。みなさんなんで生きているのですか?と聞かれて答えられますか?(うっせー氏ね)とか思うだけしょう?

それと同じです。本能のまま!ほんとうにそうです。

なので、不安定な時は不安定な感じになるのです。いつも不安定な気がするけど。

ネガティブな時はネガティブ。ララロンの時はルルリラ。暑い時は暑い、寒い時はさむいさむいマウンテン寒い寒いと書くだけなのです。

 

しかし、今は飛ばしている系のレビュー記事を書く気力がありません。。

 

このブログを重くおもく考えすぎていた時期がありました。それは最低最悪人生史上最悪の時です。なので、このブログと対峙することは、その時期の悲しい記憶と向き合うことでもあるのです。。それがいやなのです。

 

ブログはてなダイアリーを始めた2004年の何も無い埼玉県在住のくそばかアルバイター時代のような、呑気なころに戻りたい。あの頃に帰りたい、そう思っています。複雑かなあ。

とりあえず自分はまだリハビリ中なのです。こんな感じ、テキトーな感じで続けていきます。目指せブログ20年!20歳!!

涼しいミニストップのイートインで癒そう

 

【近況】便りがないのは良い知らせ

タイトルの通りです。ブログを更新をしていないということは、良いことなのだと思ってください。

現に、リアル世界が充実をしている人はネットなんて見ない、見ても息抜き程度。そんな感じなのだと思います。リアル界でリアル良い生活を送っている人同士で、なんとなく見ているだけ。ツイッターなんてそんなに見ちゃいないのです。そうですよね?

ネットのコミュニケーションの世界はネット界が思っている以上に狭いということが持論です。そんなことはないのかもしれないけど、ネット界よりリアル界の方が広いですよね。しかしネット界だけに潜む人、そこだけに居場所が無い人は、自分が見ている画面の中のことがすべてになっている人もいると思うのです。

世の中は広い。いろんな価値観がある。今、自分が見ていること感じていることだけでがすべてではない、当たり前のことですが、そう感じます。

コロナが蔓延をして、人々は外に行かなくなりました。人との会合もよくない、旅行もよくない、海外旅行に行けそうにありません。どんどん狭くなっている気がするのです。価値観が狭まって、視野がせまくなる。ネットがそれを広げてくれるものかもしれないけど、やはりそれはネット界だけの常識にすぎないのです。

ネットの界でよく言われている悲しきこと、外国人にたいして一概に〇〇の国の人はみんな××だ、なんていうものがその象徴だと思います。その国の人がみんな〇〇だなんてことないですよね。

また林真理子 日本大学理事長を例に出してすみませんが、真理子が炎上をした「いい加減にしてよアグネス」という週刊文春に寄せた文(文庫本「余計なこと、大事なこと」に収録)の中にこうありました。

最後に締めくくりを、曾野綾子さんのこの文章でさせていただきたい。いまから二年ちょっと前、アグネスはエチオピアの難民キャンプを訪ねた。その時見たものを、彼女はまた例の調子で書いたわけだ。 


「私が出会った人はみんな礼儀正しかった。いい人たちばっかりだった。無表情で感謝の心がないと書いた曾野綾子さんは、いったい何を見てきたんですか」 
 曾野さんの文章から

私が外国の紀行文を書く時のルールは、たった一つです。それはある日、私がそこにいた時、こうだった、と書くだけです。それがその国の普遍的な状況だと言う言い方は、私はしないことにしています。私は学者ではないので、普遍化ができないのです。

しかし私は、自分の目に映ったことをあなたから違うと言われると『ああそうですね、違っていました』と言うわけにもいきません。あなたは私の書いたものが、自分の見聞きしたものと違う、と非難しておいでですが、私は違うほうが当然だと思います。僅かな時の差、運命に似て出会う人々が違うこと、それを見る人の心や眼や、それらすべてが違うのですから、見えるものが違うのも当然でしょう。

しかし『どこそこの人は皆いい人です』という式の言い分は、あなたがおっしゃる分には少しもかまわないのですが、大人は少し困ります。なぜなら、そういうことはこの世にないからです」 

太字にしたのは論旨を明確にするためですが、ここで大事なのは「僅かな差で見えるものが違うのは当然」だということです。実際にネットではこのようなことは無理ですよね。編集された文章や動画でしか、物事を見られない。それが分散をしていても、あくまでレディ・メイドされたもの、それは自身が能動的に見たいものにすぎないのです。

なので、ネットだけには真実はないと考えています。判断ができるのはここだけではない。と考えているのです。

 

なので、ブログの更新も滞っているのです。これは無理がありますね><

終わり

丼丸は真実!

 

「生活世界」における このブログが不調です(※空想は好調です)

いろいろ楽しい記事を書こうとしているのです。生活世界にいる皆さんにも楽しんでいただきたいなって。

生活世界って…なあに と思ったでしょう。自分には生活世界とほんとうの自分の世界があります。「空想の片手間に生活をする」というライフスタイルなので、片手間でしかないのが今みなさんといる、この生活世界なのです。

 

いやですね生活世界。片手間でしかない存在なのに、いつも聖域をおもいっきり穢してくるのです。耐えられない。

ブログが不調なのは、そのせいです。悪しき生活世界における対立軸がコンフリクトをおこし、イシューとなり、それが蓄積をし更なる悪影響を齎しているのです。

 

「では空想をお止めになり、生活世界の向上に本気を出してみたら如何かしら」と思われるでしょう。それがまずダメなのです。

生活世界は重要なのですが、それはあくまで種(しゅ)の収集でしかありません。空想の世界ではどんな種でも受け入れるのです。たとえ悲しみでも、汚らしいものでも。それも美しい薄いピンクのベールに包むことができるです。わかりますか?

 

さらに私めの特技における活用もあります。それは音楽です。これまでの音楽経験が生活世界に活きたことは少ないのですが、それもこちらの世界においては、完全なる調和を持ち耽溺に相応しい音になって包まれるのです。

ピンクのヴェールであれば嬰ハ長調、硬質の鍵盤楽器がフーガを奏で、弦楽が追奏をする、展開部においてフルートとオーボエが1オクターブでトリルを用いて装飾をする。そんな音楽を思いつきました!

そのものは家具のような音楽であり、感情をゆさぶることもありません。なんて素晴らしいのだろう。この為に幼少からピアノを習ってきたのだと感じます。ああよかった。

 

生活世界においては、このような自己肯定すら否定をされます。まず否定から入る。愚かしい悲しい世界。「働きたく存じます」と謙遜をして申し上げても「今後のご健勝をお祈り」とかテンプレート文章で返ってくるのですああ!くだらないくだらない。生活世界なんて。

 

「ああ、もうついていけないわ。貴方はそれで幸せなのかしら」という問い聞こえました。幸福というものはあやふやなもの。今のように満たされた、インターネットがあったことで満たされた、そして皆が幸福だ、ということは無いですよね。新たな不幸もそこにあるし、なーーーんにも無い人もいる。そして幸福な人もいるのです。

そうなのです。何があってもいろんな状態になるのです。

 

それが、悪しき生活世界なのです。ほんとうにくだらないです。

 

プライオリティ。優先順位。これが必要なのかもしれません。が、生活世界が下であり片手間にしかすぎない。

私は今後も生活世界においては、「そこで種を採取する」ということに努めて後は何も考えないようにいたします。

そして完全なる世界、ほんとうの自分の世界を構築するのです。そのための人生にするのです。

終わり

叶恭子さまのような優雅な発想

まだ一日に不採用メールが2つも来た件を引きずっています。

 

と、いうようにした方がいいかなとも思います。

 

僕はここ数年さんざんさんざん不採用になっているのです。不採用人生!

 

なのでもう慣れています。

 

日大理事長の林真理子新理事長(また林真理子)が、自伝的小説「星に願いを」の中で、就職が決まらなくて、やけになって落ちて送られてくる数10つの履歴書をコレクションのようにしていた、みたいなエピソードを、若い若い中高生の頃に読んだのです。

 

それが自分にもやってきたと思い込むようにしています。

 

なぜこんなことになったのだろう、やはりアイツの…とか考えてしまっています。

 

他人のせいにするのはよくない、とは重々承知しています。

 

ので、あくまで自分のためのアクティビティとして、そう考えるようにしています。

 

アクティビティ!

 

我ながらなんという発想の転換なのだろう。叶恭子さまのような優雅な発想ですよね。

 

恨みの感情は あなたにとってのアクティビティにしたらいい

 

今、書いていて気が付きました。

これぞまさに

 

さわやか トラウマ です!

 

><

 

とにかく何もしません。副業さがしもしません。

そういえば前にもそんなようなことを書いていたような。バカですね自分

チクショー

 

終わり

田舎の実家家族に今までの職歴を全否定された件

某noteに乗せた記事をセルフコピペした記事です


恥ずかしいのですが、数年前に自分は「都落ち」をしました。

都落ち」とは、東京、大阪などの都会で頑張っていたものの、夢破れて地方へ逃げるように戻る時のことです。要するに自分は無職になり、東京からど田舎の実家に引き戻されてしまいました。

自分は本当は街で産まれたものの、小学生からど田舎に引っ越しとなった身分です。進学のためにそこを離れるまで、根っからの都会っ子だったのか全く肌が合わずにすっかり田舎嫌いになった上、での都落ちでした。

意気消沈をする中、ある日、寒い寒い山の中の実家にて、久しぶりに家族全員が集う時がありました。都会では見かけない古い大型石油ストーブが大活躍をしていても、寒い寒い×100くらいでも足らないくらいのほんとうに寒い冬の日でした。

無職になった自分に対して、厳しいことを言われてしまうのは覚悟していました。家族5人は、1対4となり、自分を責める展開になりました。ほんとうに、寒い時間でした。

今後はどうするのかと聞かれたような気がします。寒さで記憶も、うろ覚えです。そうすると家族からこんなことを言われました。

「今までのような仕事はもう止めたほうがいい」

今までの仕事。このひとたちとは疎遠気味になってはいましたが、話していたはずです。自分のいた業界を否定するようなことも言われました。

おかしいです。自分がいた業界はけっしてやくざのような業界ではありません。パチンコとか風俗とかサラ金とかもでもありません。会社は在職中に上場を果たしたところもありました。

それにきょうだい2人は、自分のいた会社が作ったサービスを使っていたのに。昨晩も。それを使って話をしたのに!なぜ否定するのだろう。わけがわからない。

そのサービスとは「LINE」です。自分はLINE㈱で働いていました。LINEの担当ではなかったけど、自分がいた部署から生まれたサービスです。誕生前から国民的なサービスに至るまでを見てきました。ちなみにその前には㈱mixiです。29歳までアルバイト生活だったのに、脱せたのがmixiでした。その後にも某有名超有名外資系企業でも働いていました。全然まともでしょう?我ながら。。

確かに無職になってしまいましたが、自分のキャリアを全否定されてしまいました。ショックです。田舎の人と、自分。家族との違いを大きく感じてしまいました。価値観が違いすぎる。

更に「身体を使ったような仕事を探してやればいい」とも。確かに自分は20代前半の頃は、身体を使った仕事、飲食店のアルバイトで生計を立てていたりもしました。が、もうそんな仕事はしたくない、することは考えてもいません。無理です。正直、なぜLINEやmixiで働けていたのに、いまさらそんな仕事をしかもど田舎でやらなきゃいけないのか。

自分は運転免許を持っていません。それは、山でど田舎で暮らせる理由ができてしまうからです。そしてそんな余裕もなかった。忙しかったし、そんなお金があったら海外旅行に行っていたでしょう。海外旅行に行けたのも都会でそれなりに働いていたからです。

車が無いと田舎では暮らせない、ということ。それがあったためか、長期計画を経て都会にまた舞い戻ることができました。この顛末を都会のお友達に話したところ「離れたほうがいいね。。」と言われました。確かにそうですよね。そうでした。よかったよかった。

今は、ぜったいに田舎に戻りたくない。そのために頑張ろうと生きるモチベーションにしています。終わり