僕を「傷心の吟遊詩人」とのたまう人達がいる。確かにそうなのかもしれない。自分にはそのような背徳的なイメージがあるのだろう。しかしどうだろうか。自分は、良い気候を引き連れてしまうという「癖」がある。「へき」としたのは、それを嗜もうとしたいわけでもないのに、そうなってしまう、ということである。仕方がない。青空が付いてきてしまう。
だから、今日の好天や上気温も愉しみ、いつくしみ、それらを引き連れるべきだと考えた。・・・なので、だから、なのでという接続の多さには目をつむってほしい。吟遊詩人にもなれない、孤独な男なのだから。
というわけで新宿御苑に行った。「自宅から至近」だと言いたいが、どうしても以前の新宿住まいの頃と比べてしまう。あの頃は明治通りを自転車で駆け抜け「ランラロロー♪」と口笛も豊かに、すぐに御苑に着いていた。しかしそうはいかなくなった。が、今は地下鉄で直結である。前よりも便利になったということなのかもしれない。
申し訳ない。今日は「傷心の吟遊詩人」なのだから、許してほしい。しかし許しを請うのはもう最後にする。
ここに行った理由は照葉を見るため。それってなあにと思っただろう。かんたんに、こうようと書けば満足するのだろうか。それとも「照らされた葉なんて素晴らしい表現だわ素敵」と思ってくれるのだろうか。果たしてどうだろう。君たちは試されているということを忘れずに。ここはのん気だけのブログではないのだ!
ああ、閑話休題。
当然の如きの青空が僕を迎い入れてくれた。迎いれるということはあるけれども、歓迎された招きというものは、あまり体験したことが無いような気がする。なぜ、いつも、歓迎されないのだろうか。
ここに至るまでの公園の外の道は、舗装がされていない道だった。土と触れ合うことは、別に嫌いではないけれども。舗装がされていないことにイライラする自分が、そこにいた。
舗装がされていない道はトラウマ
イライラした理由は僕の実家、昔も今も、家の前の道は舗装がされていなかったことを思い出したから。石がゴロゴロしていて、そして下り坂だった。とても自転車なんて走らせられなかったし、外に出るということが殆ど無かった。名古屋に住んでいた時は、ふつうふつうの街だったので、補助輪が取れた小学生低学年のときは、自転車で街をフラフラするのが、すごく好きだった。小さいころだったから、はっきりと覚えている。ほんとうに楽しかった!決して美化、美化しているわけではない。名古屋の普通の街を、できるかぎり遠くに行かないように自制をして、でも自由に走り回ることの楽しさ。「まちというのはたのしいな」なんて思っていたのかもしれない。
そんな、ありきたりな物が、無くなってしまった。「どりょくをすればいいのかな」なんて、当然考えもしない。小学生にはどうやっても抗えないもの。
「あきらめる」
その感覚を覚えたのは、小学3年の夏以降の頃だったのだろう。それが僕の人生の最初の挫折だった。その後は、延々と続く下り坂そのままに、転げ落ちていってしまった。
なんて、ネガティブなんだろう。でもほんとうにこんなことを、舗装がされていない道を歩いて、考えていた。僕はあの時からずっと!傷ついてしまったままなのかもしれない。傷心傷心言っている理由がよくわかったでしょう??嗚呼。
だから、こんなノンキな生活を送っていることも、許してほしい。許してほしい。また乞うてしまった。。
「オルヴォワール通り」にて、ヨーロピアンの「根」の元に。。
哀しい気持ちを、青空でごまかしながら、僕は歩いていた。あそこに向かうために。
「あそこに向かう」「何かをやろう」と一度思ったら、其の通りにしないと気がすまない人間に最近なってしまったと感じている。この時もそうだった。あそこが目的だ。目的だ。それだけを考えるようになっていた。もっとふらり感覚、じゅん散歩感覚でよいのではないのだろうか。しかし、できなかった。かなしいかなしいふりをするのが、かなしい。
外資系中華系推定台湾女子らに憚れながら、ここにたどり着いた。オルヴォワール通り。由来は下記に記した。確認されたい。
たったの4年前の記事だったことに驚愕を禁じえない。この頃は前に記した「御苑まで自転車でルンルララ」時代に書いた記事。この通りこそ、MALICE MIZER「au revoir」にふさわしいという断定から、ここを「オルヴォワール通り」と名付けたのだ。なんて発想なのだろう。Manaさまファンは数おれど、ここまでに精神的実勢に即した者、しかも男、しかも20年以上の筋金いりのヤツはいるのだろうか???
ほんとうにこんな事を考えていて、切なくなってきた。ほんとだよ。なんて愚かなんだろう自分。
MALICE MIZER - au revoir PV (1st edition) [1080p HD]
ベンチを占拠して、僕は決められた儀式を司るように、「au revoir」をイヤフォンで聴き出した。間奏のツインヴァイオリンのフレーズは、共鳴をし、逸れて、哀しい結末へ向かうかのような展開になる。なんて素晴らしい曲なんだろうか。木の葉が陽光に照らされて、僕の悲しみを昇華してくれるようだ。
この写真を撮った時に、僕の「心の中に眠るヨーロピアン」が目覚めてしまったのを感じた。悪いことなのだろうか。
さようならオルヴォワール。70年代の少女漫画のタイトルみたいで愛おしい。「さよならヘルムート」は大島弓子さんの漫画にあった。
ヘルムート・バーガーなんて、皆知らないのだろう。大島弓子さんも。哀しいな。孤立するはずだよ。ルキノ・ヴィスコンティの映画「ルードウィヒ」なんて見ていないのだろう。かなしいかなしい。孤独だ。
しかし、次の展開もあった。少女漫画的、きわめて少女漫画的な。
英国庭園で秋薔薇らを堪能
薔薇の季節は夏だけではない。春薔薇、夏薔薇、そして秋薔薇というのもある。今は秋真っ盛りなのだから、当然秋薔薇らも咲いていた。沢山に咲き乱れよ若き乙女たちよ(CASCADEだ)というわけにはいかないけど、僕はこれはこれで素晴らしいと思う。見てください、この可憐な一輪の花を。食してはいけない、禁断の果実のような姿。他の薔薇もこのような感じだった。この写真は、「ひそやかな姿、ひそやかなピンクの薔薇と、ドコモの甚大なパケット代にて成り立った産業の象徴との対比」を意識した。パンク精神、それも芸術たるものなのかもしれない。
「おろかしい俗物め」「わたしを見るに値しないその濁った瞳」「今すぐに去れ」という薔薇からの戒めが聴こえてくるような、素晴らしい出で立ちであった。負けた。。
この2つの写真を見て、あなたは「地味だなあ」と思ったかもしれない。しかし、本来の薔薇園というものは、こういうもの、いや花というものはこのようなものだと思うのです。花屋や、観光客目当てで植えられた無数の下品な花たちと比べたら、なんと尊い佇まいなのだろう。まさに、人間と同じです。人間は束になれば、なんとかなると思っていますよね。集団アイドルも同じ・・だなんて。思っていた。困ったなあ。
この美しすぎる薔薇の名前は「プリンセス・アイコ」愛子さまがここ最近にお見せになる、あの華やかであられるけれども、やはり控えめな笑顔そのままのような、薔薇ですよね。ほんとうに素晴らしい愛子さま。天皇陛下ご一家に対しての尊敬と敬譲は欠かさないのです。
同じような、血を引いた貴族の一員として。。
なんと不敬なのだろう。心から反省をした。
芝歩行にいやされた
Instagram post by 世界のmaemuki • Dec 3, 2019 at 11:43am UTC
この後は、新宿御苑の名物のひとつ、ひたすらに大きな芝広場を歩いた。芝を歩行すると、アスファルの舗装よりも、随分と歩きやすいことに気づいた。足取りが軽くなった。子供たちが「わーい」とはしゃいでいたので、僕も一緒にはしゃぎたくなった。「わーい」「ばあー」「ぶぶうう」と幼児化を、しそうになってしまったけど止めた。
「子供の時に新宿御苑に来られるなんてうらやましいな」と芝に腰掛けて、子供たちを眺めていた。そうすると、透明なキラキラの物体が宙に沢山注がれていた。シャボン玉。とてもキレイだった。子どもたちはそれを捕まえようとし、捕まえられないのを楽しんでいた。とてもキレイだった。僕もあの時に戻りたい、けど、戻れないんだな。と当たり前のことを思ってしまった。
今日の、もう一つの目的は「ひなたぼっこ」だった。ひなたぼっこをするとビタミンDが増えて、インフルエンザ予防に良いということを聞いたからだ。しばらくボッコボッコしていたけど、雲が出てきてしまった。うまくいかないなあ。と感じて帰ることにした。落ち葉を撮ったのはなぜかはよくわからない。自分も落ち葉、葉っぱと同じようなもの。人間なんてただの動物なんだ、傲慢になってはいけないんだ。僕は神ではないし、神なんて存在しないんだ。だから、都合をよく考えて生きていこうと、大きな決断をして、みる振りをした。少し寒さを感じてしまった。帰ることにした。終わり